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僕は「まわりくどい」らしいが、例えばそれで就ける役職は制限されるのだろうか(前編)。

グズグズの泣き言を公に晒すスタイル

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僕はよく、「まわりくどい」とか「話が長い」とか「面倒くさい」と言われる。 今の職場はとても言葉選びが優しいので、こんなに直接的には言われないけれども、「シンプルに伝えよう!」「短く、濃く!」「もう少し纏まるとより一層素敵!」などと言われる。

…はい。

それで、いつからそうなのか、なぜそうなのか、言い訳ついでに色々考えてみた。

以前、職場の同僚に「あなたは多動が制限されて多弁になったパターンだよねきっと」と言われ、かなり腹落ちしたことがある。そういった転移がどれくらい認められるのかなどは検討してないけれど、多分そう。

昔から止まっていられなくて、小学校では、よくいる《椅子を後ろに傾けてユラユラしてるヤツ》だった。それか、消しゴムから出てきた消しカスを集めてこねて色々な形にして過ごしていた。これらを全部注意されたら、静かにしているのは無理だったので、先生の目を盗んでひたすら周りの友達にヒソヒソ話しかけていた。

友達と遊ぶときはごっこ遊びが多く、妄想したシナリオやら設定やらをひたすら語ってるヤツだった。

クラスで揉めごとがあると、大抵僕のポジションは裏。表でどうのこうのする勇気はないし非力だし、裏で戦局を読んで作戦をあーだこーだしてる方が性に合っていた。

何をするにも、どう振る舞うにも、基本的に道具や武器は口と言葉だった。しかも、小難しい言葉が好きで、大人が使ってたり小説に載ってたりする言葉を引用しまくっていた。カッコいいからとかそういう理由ではなくて、小難しい言葉を使うと周りの大人が褒めてくれた。「よく知ってるネ」「大人だネ」「分かりやすいワ」、そう褒めてくれるのが単純に嬉しかった。

大学に入ってから、この傾向はますます加速した。術語に触れる機会が多くなり、言葉は意識しなくても加速度的に難しくなる。白熱する議論の数々は、いかに言葉を重ねるか、ということのトレーニングになった。「○○的◇◇的△△」のような言葉に美しさを感じ、舌戦を繰り広げられるコミュニティに埋没していった。

大学院を出た頃には、もうすっかり言葉で生きている感じで、しかも次々に言葉を紡いでいくクセがついていた。言葉が足りなくて相手に誤認させてしまうことが怖くて、なかなか「短くシンプルに」ができなくなっていた。他人に自分の考えを否定されるのが怖くて、どんどん言葉を塗り重ねていくコミュニケーションが普通になっていた。

この僕が「まわりくどい」を脱却することは可能なのだろうか。「シンプルに伝えよう!」を実践することは可能なのだろうか。改善しよう(「改善」という言葉が正しいかは別として)と思って何度も何度も意識して行動に移してみるものの,なかなか成功体験は得られず,むしろますます「まわりくどい」ほうがメリットを感じる経験ばかり蓄積していく。心理テストをしても「討論者」や「弁論家」などと出る始末。これはもはや個性なのではないかな…と思い始めている自分もいる。

この「まわりくどい」がボトルネックになってなかなか自分の仕事での役職を変えられずにいる…(後編へ)