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僕は「まわりくどい」らしいが、例えばそれで就ける役職は制限されるのだろうか(後編)。

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前回の記事:僕は「まわりくどい」らしいが、例えばそれで就ける役職は制限されるのだろうか(前編)。

「まわりくどい」と話した相手が混乱してしまうから、チームをまとめるリーダーのような役職に就くなら「シンプルに伝える」ことが大事らしい。

たしかに、言わんとしていることは分かる。ピンポイントに刺さる言葉は別に長くても短くても刺さる。長いから良いというわけではないし、短く済むなら短い方がいいだろう。長々話されても退屈になったり、主張が散乱してしまっては聞く側も大変だろう。

でも、僕は「シンプルに伝えられた」ときのほうが不信感が強まる。その理由は2つ。1つ目は言葉が足りなくて起こる不信感。どんなにピンポイントに刺さる言葉であっても、刺さったポイントが的確か、相手と共通認識を取れているかを確認するために結果的にその後のコミュニケーションを増やす。しかし、そこすら省略されてsimple is bestを決め込まれたら、僕は混乱する。

2つ目は粗雑に扱われているのではないかという不信感。これは前提となる信頼関係など、別の角度からのアプローチでもいくらか改善されることであるけれど、それでも結局のところ「あ、シンプルに済まされた」という気持ちがよぎる。

なんだか僕のわがままお披露目会のような雰囲気になってきたので、軌道修正。

どの時代も(特に日本は)明確に「学力観」や「学習者像」を共有して教育をおこなってきた。こんな力が身につけられるべきだ、こんな力があってしかるべきだ、そのためにこの目標を掲げて学習を展開せよ、この力を意識して学習者を育め、といった具合である。そのおかげで多くの子供たちがその時代に合った(少なくともそのときにはそう思われていた)人格に育ち、納税者になった。そして、多少なりとも国家が発展してきた。この事実は一定認めるべきだろう。無論、そもそも教育を受けられなかった子たちがいるだとか、教育を受けてもそのあとで社会参画に高いハードルを突き付けられて挫折した人たちがいるだとか、一度軌道から逸れると修正がなかなか難しいとか、そういったことを言い出せば批判の余地は無限にある、とも思う。ただ、僕はそういった批判以前に、とても不思議に思っていることがある。

それは、昔に比べて多様性や個々人の特性等が許容されるようになった現代においても、やはり目指す資質能力などはある程度統一的な指標になる、それはなぜだろう、ということだ。

例えば、ユングの心理学的類型論をもとにして開発されたMBTIに基づく性格分類は、人間を16の性格に分類する。例えば、疑似科学と批判されながらもHR領域やマネジメント領域などで根強い人気を持つエニアグラムは、人間を9の性格に分類する。例えば、株式会社コーチ・エィの鈴木義幸氏がコーチングの大前提として活用する「タイプ分け」では、人間を4のコミュニケーションスタイルに分類する。

それでも目指すべきものとして掲げられる資質能力は統一的である。厳密に言えば、統一的なものであると解釈されうる説明で世に出回っている(説明するって難しい)。

「まわりくどい」僕の話に戻る。

もし、チームをまとめるリーダーのような役職に就こうと思ったとき、「まわりくどい」僕がどうやったらそのままリーダーとして立ち回れるか、を考えるのと、リーダーになるために僕がどうやったら「まわりくど」さを抑えられるか、を考えるのでは全く違うと思っている。

僕はどうやら「まわりくどい」らしいのだけれど、例えばそれで就ける役職は変わるのだろうか。

今の世の中が本当に多様さを認め合える世の中になっていくのだとしたら、この問いに対する答えは「はい、そうです」になるはず。

リーダーを目指したいと思ったときに、社会の側が多様なリーダーをそれぞれ別々にリーダーとして認められていれば、リーダーたるやかくあるべし!なんて押し付けを喰らわずにどこかしらで何かしらのリーダーに就けるはず。

だから、先ほどの問いに対して「そんなことないよ、個人の多様さで就ける役職が変わってしまうなんて、多様性を認められてないのと同じになってしまうから」などと安易に答える人のほうが、よっぽど多様性を無意識に排除しているような気がする。

ということが言いたかった。

やっぱり僕は「まわりくどい」。