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メトニミカルな出会いを希求する

―メタフォリカルな出会いが蔓延する世の中でー

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僕が考えごとをしているとき、背後では何が起こっているのだろう。

〈背景〉とか〈水面下〉のような抽象的な意味ではなく、文字通り、背後。

この記事をいま、雨をしのぐバスの車中で書いている、その、僕の、背後。振り返って見てみれば分かる、おばあさんが傘の水を払っていた。

スーツを着た男性がしかめっ面でスマホを覗き込んでいた。窓の外には最近できたばかりの新しいコンビニが見えた。


振り返って見てみる機会が減っているように思う。これはもう少し抽象的な意味で、日々の生活全般において。

あえて振り返らなくても、さまざまなサービスが僕の目の前に〈モノ〉や〈コト〉を運んできてくれる。きっとコレが欲しいですよね、アレがやりたいんじゃないですか、ソレはあなたの過去の購入物から推測してのご提案です、といった感じ。

サービス提供側は僕のあらゆるデータを収集して、そこから新しい〈ご提案〉を立案してくれる。手垢まみれになりつつある〈AI〉なんかも、かなりそれを手伝っている様子。


だからだと思うけれど、提供されるサービスに対する既視感が拭えない。初めて見たはずのものに、「どこかで見たような…」という懐かしさを感じることが増えた。

新しいんだけれど新しくない、初めてなんだけれど初めてじゃない。 それが安心や満足に繋がることもあるけれど、最終的にはいつも物足りなさの苦味を感じる。

それだけ〈先回り〉の精度が向上し、僕らは自分の躰を右に左に振り回さなくても、過去の体験と類似した新規サービスを消費できるようになった。


〈メタフォリカルな出会い〉ばかりが強化されているように思う。

メタファーとは、類似する要素を用いた比喩表現のこと。向日葵を見て「太陽のようだね」と言ったり、暖かい手を握って「カイロ!」と言ったりできるのは、2つに類似する要素を見出しているから。

僕らの生活にはこのメタファーのように、類似性に立脚した出会いが増えている。膨大な過去の体験のデータは、そこに広がる類似性のネットワークを導き出すために分析される。そして、導かれた類似性のネットワークを方方に拡張した先にある新しい体験を紹介される。


比喩にはもう一つ、メトニミーというものがある。これは、近接性を用いた比喩。

例えば、「水筒を飲む」や「鍋を食べる」などは、本当にそうするのではなく、それぞれ、水筒に近接する中身の飲み物、鍋に近接する中身の食べ物が行為の対象になっている。「御手洗いに行く」というのも、本当に手を洗うことだけを言っているのではなく、手を洗うという行為に近接する(手を洗う前におこなうあの)行為をこそ指している。両者は似ている必要が無く、ただ近接していれば良い。

<メトニミカルな出会い>には、偶発的な出会いが多く含まれそうだ。ベンチで隣に座る人に話しかけるような、紙辞書で調べた単語の前後にある単語に目移りさせるような偶発的な出会いが。


<メトニミカルな出会い>を希求する。自分の過去の体験や履歴から生み出される予定調和の出会いに抗うかたちで。自分の想像を超えるモノやコトがすぐ隣に実存している(アクセシビリティが向上した)この世界で。