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発達ゲームは双六ですか?

発達に関する諸課題は、人生の課題かのように我々にのしかかってくる。自分の発達の課題を自覚して向き合うようになるのは随分と歳をとってからで、大抵は大人が子どもに、親が子供に課題を感じてあたふたする。この子はきちんと発達課題を乗り越えられるかしら、と。腕を振り回していた我が子が手指の分化を遂げて手元での細かな作業をできるようになったり、あーだのばーだの発声していたのが「まんま」と有意味(に受け取れるよう)な発語をするようになると、取り乱して喜ぶ。

もちろん、これまでとは違った生の在り方を子供が実現したわけだから、その現象がもつエネルギーたるや凄まじく、周囲の人間を感動させることは合点がいくし、おそらく僕だってその場にいればひっくり返るだろう。でも、子供が今までと違う生の在り方を提示してくれたことに喜ぶだけでは終われないのが、今の多くの大人たちである。


「うちの子、最近つかまり立ちするようになったんだけどさ」「そうなんだ、それは成長の証だね。そうしたらそのうち伝い歩きするようになるよ」先輩親と後輩親の会話にはよく、このようなやり取りが見られる。後輩親は自分が初めてみる子供の新しい生の在り方を話し、先輩親はそこに次の生の在り方を提示する。後輩親が語ったところまでは純粋なる新事象の叙述、目の前で起きたことがどんなことかを物語ったに過ぎない。もちろん、感動が前提にあったりするので、事実にどれくらい近い叙述になっているかは時と場合による。

でも、後輩親の話を先輩親が引き継いで「次は…」と語り始めた瞬間に、この話題はたちまち発達論的順序性のなかに取り込まれることになる。Aが済んだら次はB、そしてまだ想像もつかないかもしれないけどBの次にはCがあるんだ、と。


子供を発達論的順序性のなかに取り込んで捉えることは、抵抗なしに広く多くの家庭や教育現場で行われている。「親」は子供の発達段階や獲得・習得済みのスキルが記載された<マスタリーブック>を頭の中で常に持ち歩いている(場合によっては何かしらの方法でそれを具体物にして文字通り持ち歩いている)。「教育者」や「支援者」も、「親」が持ってきた<マスタリーブック>を一緒にのぞき込んで、まだこのスキルにチェックがついてないですね、とか、ここまできたら次の段階に進めそうですね、のような話を一生懸命にする。それだけでなく、「教育者」や「支援者」の熟達度や専門性は、この<マスタリーブック>の読解力とそこから立ち上げる教育・支援の実際的な手立ての精度によく紐づけられて説明される。「親」も少なからずそれを期待する。


子供が日々刻々と生の在り方を変容させると、大人はそれを必死になって手元の<マスタリーブック>と照らし合わせ、やったぞ新しいスキル獲得したぞ、とか、惜しいけどこれは発達とは関係なさそうだぞなどと一喜一憂する。この感情は僕が最初に「取り乱して喜ぶ」と表現したときほど振り切れておらず、喜びの先には次の不安が付きまとい(一難去ってまた一難)、憂いはその大人を底なしの沼に突き落とす。そして、最終的に多くの大人が、目の前の子供に対して停滞や遅滞を感じ、世界に置き去りにされたような危機感や絶望感を感じることになる(一時期喜べた人も、スキルはどんどん獲得や習得の難易度を高めていくため、この流れに収束していく)。


そんなときでも子供は生の在り方を絶えず変化させている。大人たちが目を落とす<マスタリーブック>において説明がなされていない、価値づけされていないだけで、変化は常に何かしら起こっている。言語発達を例にすると、使用語彙や運用されている文法のレベルは既得レベルでも昨日とは異なる作品に触れている場合、これは明らかな変化である。使用語彙や運用されている文法に基づく発達の捉え方を即座に放棄しろとは言わないし、そういった趣旨のメッセージではない。そうではなくて、僕が言いたいのは、あなた(大人)は発達ゲームを双六のように捉えるその自分の捉え方に苦しめられているのであって、子供はあなたを苦しめていないし、変化という意味では停滞も遅滞も無く、絶えず何かしらが引き起こっている、ということだ。

もっと言えば、その、あなたが手にしている<マスタリーブック>が、自分で作り上げたその発達の固定観念が、自分を苦しめているだけなのだと、本当に心からそう言いたい。<マスタリーブック>を完全に否定するのではないし、あって便利なこともある。でも、それだけがすべてだという考え方には相当のリスクと、何より自己破壊の可能性が秘められていることを、何度も強調しておきたい。