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言われたところでっていう

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☆内容のざっくりまとめ☆

中学生と関わる仕事をしていて、親が子供にプレッシャーをかけすぎているケースをちょこちょこ見る。それで、じゃあ僕はどうだったっけ?というのを自分の母に聞いてみて、その回答に学ぶことが多すぎた…という話。

◆本文◆

中学生はいろいろな悩みを抱えている。たとえば交友関係。友人とうまくいく、いかない。あいつと仲良い、悪い。たとえば学習関係。勉強うまくいかない。みんなより成績低い。例えば進路関係。将来の夢?なにそれ。進路は自分で選ぶもの、分かってるよそんなの、簡単に選べたら誰も苦労しないよ。という感じ。とにかく、見ていて耐え難いほど、様々な悩みに追いかけ回されている。悩みに集団リンチされている。中学生を見ていると、うわ、もう戻りたくないな、とすら思う。


いろいろな悩みのなかに、親子関係の悩みが生じている場合もある。親子。難しい組み合わせ。親と子ってだけでいろいろな前提を求められる。お互いのことがよくわかっているよね。子は親の考えに従うよね。親は子を導いてあげなきゃいけないよね。どっちもしんどい。大人の親だってしんどいのだから、子供はより多くの制約の中でその役割を担わされ、とてもしんどい。


僕はというと、そんなに親子関係の悩みは多くない中学生だった。そりゃあ月並みに、親が口うるさい、とか、分かってくれない、とか、そういうのはちょこちょこ思うこともあった。でも、ほとんどいつも、頭の片隅に後ろめたさがあった。口うるさく言われる心当たりだったり、分かってくれないだろう自分の思考の突飛さだったり。だから、時間がたてば了解できるレベルの悩みばかりで、ひきずることはなかった。


でも、僕は親子関係に悩みが生じてもおかしくない中学生だった。学力は最下層。というより、底。みんなが上のほうでふわふわ楽しそうななか、僕は学力階層の最下で硬い地面に地団駄踏んでいた。いや、地団駄は踏んでないか、もはや寝転んでいたかも。だから、僕が親にああだこうだ言われて、うるせぇ!と反抗する構図は常に出番を待っていたはず。そうなっていれば多分悩んでいた。でも、現実はそうじゃなかった。悩みは生じていなかった。


なんでだろう、ふと不思議に思って母に電話した。こういうのは自分で考えるより、本人に聞くほうがいい。電話したいと連絡するとすぐにかかってきた。


母の回答は意外なもので、なおかつ示唆に富んでいた。僕が「どうしてあのとき、僕の自堕落を責めなかったの?」と聞くと、「だって、言われたところで、じゃない」と。それだけ。いたってシンプルで、思わず聞き返した。「そりゃいろいろ思うことはあっただろうし、今思い出しても思い出せないこととかもあるけど、でも、私が何か言ったところで、どうしようもないじゃない」。うん。いや、たしかに、本当にそうだ。僕はすっかり納得して、そのまま電話を切りそうになった。


いや待て、じゃあ、そうじゃない親子関係と、僕らの親子関係には何の差があるのだろうか。この問いには母も少し悩んでいる様子だったが、遠慮がちに「だって、私はバカだし、そんな自分が成功してきたっていう実感もないから、子供にああだこうだ自信もって言うっていうのも難しいのよ」と答えた。母の意見をもとにすれば、母自身の自己肯定感、自己効力感、これまでの成功体験の質や量、そういったものが子供への働きかけに影響しているのかもしれない。


仮にそういう場合もある、ということであれば、何とも苦しい話だ。親は子供を持つまでのあいだ、自分自身を生存させるために社会を生き抜いてきた。その生き抜く力が強く、実績や成功体験を多く持った人ほど、子供を前にしたときに、無意識のうちに刃を向けてしまっている可能性がある、ということだ。まして、子供がいようがいまいが、親自身の人生はまた別。引き続き社会で渡り歩いていきたいとか、自分で事業をなしたいという人もいるだろう。でも、その熱意や活気が、出力の仕方次第で我が子を傷つけるものになりうるのだ。


確かに、そういう意味では僕の母はそういう武器をほとんど持ってない。でも、それが当時の僕にはちょうど良かったのかもしれない。もし、あの学力低迷期に、「小学生の頃はよくできていたのに」とか「周りをみなさい、もっとやってるでしょ」とか言われていたら、グレまくっていただろう。中高6年間ずっと。僕が親だったら同じことができるだろうか。まだまだ修行が足りなそう。親ってすごい。