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子供にアメを食わせたら大人になるのか

最近は全くやってない。幼稚園の年長さんから高校生にかけて長くお世話になったポケモン。モンスターを捕まえて、レベルを上げて、進化させて、強い技を覚えさせて、自慢のパーティーを作り上げて、闘って、勝つ。40〜50あたりからレベルが上がりにくくなり、四天王を周回したり、強い野生のポケモンが出てくるところをウロウロしたりして、ほぼ流れ作業(いわゆる作業ゲー)。それでも強い個体を作り上げるために耐えて頑張っていたっけ。


その徒労を一瞬で消しとばしてくれるアイテムがあった。ふしぎなアメ。このアイテムをモンスターに使うと、即時レベルが1上がる。どのタイミングで使っても一律に1レベル上がる。一回の戦闘で2〜3上がるような一桁レベルのモンスターも、20〜30分かけてようやく1上がる中堅レベルのモンスターでも。数十秒と30分が同じ時間単位(ふしぎなアメをリュックから選んで使用する時間)に圧縮される。嬉しい気持ちと、ズルをしたような気持ちと、子供ながらに複雑な思いでふしぎなアメを収集していた記憶がある。そしていつも、結局一つも使わなかった。


努力こそ成長の糧。知らないうちにそのような価値観を支持する列に並んでいたのかもしれない。後で知ったが、ポケモンにも「努力値」という概念が存在しており(今もあるのかは不明)、戦闘を経験することで得られるものが想定されていた(それすらも圧縮できるアイテムがあることも同時に知ったが)。だから、ふしぎなアメを積みまくって育てても、戦闘を経て育つのとは能力値に差が出る仕組みになっていたのだ。小林少年よ、少しは安心したかい。


ポケモンに限った話なのか、と最近思う。生きていると「大人になったら」とか「もう大人なんだし」とか、《大人になる=努力値盛り盛り》みたいな思考停止に出会うことが多い。この思考停止、①子供の未熟さに対する免罪符として用いられている場合、②大人に対して退路を遮断するために用いられている場合、③子供に対して「いまの許しは子供期間限定の許しよ」と予告している場合、など使われ方は様々。いずれにせよ、大人になったら自然とみんな《努力値盛り盛り》になるという認識を共有しているよう。


ポケモンの努力値に話を戻す(僕も後から知ったうえに、詳しくはないので間違っているかもしれない)。ポケモンではモンスターのステータスが、こうげき、ぼうぎょ、すばやさ、とくこう…といった項目に分かれており、どの項目の努力値が蓄積するかは、そのモンスターの経験によって左右される。たとえば、筋骨隆々で攻撃的なモンスター相手に戦闘を繰り返せば「こうげき」のステータスが向上しやすくなり、堅牢なボディのモンスター相手に戦闘を繰り返せば「ぼうぎょ」のステータスが向上しやすくなる。つまり、モンスターのステータスにはそのモンスターの生活経験がそのまま反映されるのだ。誰と闘っても、どこで過ごしても皆同じ努力、というわけではない。ポケモンだって生活経験の多様性を担保していた。56×56のドット絵の世界だって努力は均質では無かった。


「努力しろ」とは言わない。でも、生活経験は可能な限り豊かにした方が良いのかもしれない。たいそうな経験でなくてよい。河原で石を拾ったり、アイロンで火傷したり、水風船を膨らませたり、フェンスをよじ登ったり。ふしぎなアメを食べて育っている子供たちに会うと悲しい気持ちになる。努力値を蓄える機会を得られずに身体と年齢と限られたステータス(かしこさ、一般的なポケモンには無い)ばかり成長し、18やそこらになったら途端に周りから「もう大人なんだから頑張りなさい」と言われる。親に「関わるな」と言われたかつてのヤンチャ坊主たちに生活力で劣る。


そりゃあボックス(手持ちに持ちきれないモンスターを保管しておく場所)から出られなくなるよな。出るの怖いよな、だるいよな。