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鍵括弧が大事だという話。

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前回の文章の続きっぽい感じになるかもしれぬ。


相手の視点に立って考えてみよう、自分とは違う考えの人が言いそうな意見を想像しよう、相手の…教育の現場(子供相手に限らず社員教育などでも)ではよく「自分以外の人」を想像させられる。だから真面目に大人や上司の言うことを聞いてきた人ほど、しっかりそれができている。できている、というのは「自分以外の人」を想像することが、だ。


でも、それは自分以外の「その人」ではない。相手の視点に立って考えている自分であり、自分とは違う考えの人が言いそうな意見を想像している自分である。僕がいま言っていることは当たり前のことだし、巷の自己啓発本が何百ページ何千ページと使って説明していることだ。「自分以外の人」が想像の産物である限り、それは自分自身の延長線上にある点でしかない。


自分自身をどんなに長く伸ばしても、あらゆる方向に伸ばしても、まったく交わらない点(人)がこの世界にはたくさん存在する。出会って、目の当たりにして、思わず「えっ」と絶句した経験があると思う。その人は自分にとってまさに異界の住人であって、そういう人だって当たり前のように生きているのがこの世界だ。いま、電車の隣の席に座っているその人、カフェの奥の方の席に座っているあの人を見つめながら内面を想像したところで、それは自分とその人との接点を、しかも自分だけの了解の中で生み出したものに過ぎない。そしてそれは当の本人からまったく的外れだったりする。


だから聞く。だから交流する。そこに対話の価値があり、交流の目的がある。相手の話を聞いて、自分の考えと照合して差異を確かめる。自分自身という回路とまったく異なる「その人」に自分を接続して、相手の考えをダイレクトに流し込む。このときに意識したいのは、可能な限りそのまま受け入れるということだ。「それってつまり…」などと前置きして自分の言葉に置き換えようものなら、一瞬で「その人」は消滅し、「自分」に戻ってしまう。自分の言葉で捉えなおそうとしてしまいそうになったときは、鍵括弧を意識するとよい。相手の言葉に鍵括弧をつけて、そっくりそのまま引用する。相手の言葉をそのまま反復して声に出すだけでも良い。相手と交流しているときは、極力相手の思考に自分の思考を寄せていく(自分自身に戻ってくるのはそのあとでも大丈夫)。


うんうん、大丈夫、やれているよ、そう思って今これを読んでいる人、僕はあなたに何をやれと言い、あなたは今何を「やれている」と思ったのだろう。この問いに、鍵括弧のついた回答を求める。