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自分の特権と向き合う必要性と不可能性

僕は最近、自分の特権について悩んでいる。僕は確実に沢山の特権を有していて、恵まれている。これまでの人生を総合して考えれば、いまこの瞬間に生を喜べている時点で本当に幸福な人生だったのだと思う。沢山の人に支えられて、沢山の機会に恵まれ、偶然の重なる瞬間を、飛び石を飛ぶように踏んで来られたのだと思う。その、僕の数多の特権について悩んでいる。


特権について悩むなんて贅沢な話だと思われるだろう。特権について悩めることすら特権じゃないかと言われるかもしれない。それでも悩まずにいられないのは、僕が社会の相対的尺度の数々に身をさらしているからだと思う(他責的にではなく、自ら進んで)。平たく言えば、「上には上がいる」という前提で行われる「その上の側から見れば僕は下」という自傷。そうやって自分を叩き上げてきたんだ、と美談的にも語れるけれど、副作用として僕は自分を相対的不満足に(永久に)突き落とし続けている。


副作用は相対的不満足だけにとどまらない。僕は僕を「持たざる者」だと思っている。そのことが、周囲から見たら嫌味に見えたり、時として暴力になったりする。なんでお前が持たざるなんだ、それなら俺はどうなるんだ、そういう言葉を何度かかけられたことがあるのを思い出した(いまさら)。そのとき僕はその言葉を受け取れなかった。言ってくれるな、僕は僕で苦しいんだと、そう思って突き返していた。被害者面で被害者を量産し続ける、タチの悪い加害者だった。でも、僕はそれでも自分を卑下し続けたし、特権のとの字も自覚していなかった。僕の周りには僕に傷つけられた人が溢れた。


現状、解決までは至っていない。でも、今はこうやって自分の特権を、離れたところから見ようとするようにはなった。まだまだ「僕なんて」という気持ちは拭えず、それゆえ無意識に人を傷つけることはあるが、頻度と規模はだいぶ減少、縮小傾向にある。


ここまで、自力ではたどり着けなかった。友人や大人に教わってきた。「昔に比べて自己理解が進んだね」と言われることがあるが、数え切れないほどの「他己分析」が貢献してくれている。良くも悪くも他人に言われたことは引きずる傾向にあるので、他人に言われた僕のイメージなどを何度もリピート再生して取り込んできた。


「他人の話をその人の話のまま味わえ」という言葉を誰かに言われてから、今の学びのサイクルに転移した気がする。それまでは「それってつまりこういうことだよね?」と、何でもかんでも自分の心内辞書の言葉に置き換えていた。「知ってる知ってる、それってこうだよね」とか「ああそれってあれだよね」みたいに、相手の言葉の意味のほんの表皮だけを剥がして自分の経験にはりつけていた。学びのサイクルが変わってからは、自分の知らないこと、分からないことが多過ぎて驚いた。知っているつもりになっていたことの殆ども、本当は全然知らないままだった。


少々話が逸れたので、特権の話に戻る。悩んでいるというのは、僕がおそらく「持つ者」なのだろうという、他者からの言われ方見られ方からの推測と、自分自身の実感としての「持たざる者」感とが常に鬩ぎ合っていることを表している。多分、鬩ぎ合っている時点でそれは「持つ者」なんだろう。でも、じゃあ僕のこの「持たざる者」感には誰がどう寄り添えばよいのだろうか。僕のことは僕が何とかすればよいから、寄り添うなんて考えずに我慢するのもありだが、同じような悩みを持つ人が一定程度存在しているだろうと思っている。そしてその人にこの悩みを打ち明けられたとき、僕は「嗚呼、僕もかつて悩んでいたよ。でも、時間が解決してくれるさ」なんて返答をしたくない。


悩み続けることが、いま、僕にできること。でも、そろそろ次のステップに移行したい、とも思う。