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ブリコルールとして生きる

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僕は模倣が得意だ。何にもないところから何かを作り上げようとしても、全く頭が動かない。でも、どんなに小さくてもいいから、何かきっかけになるようなものがあれば、それを使って次の創造をなすことができる。その姿を見て友人は僕に、「こばたくは0から1を作るのが得意だよね」と言う。確かにその場だけを見れば、僕は何もないところに新しい何かを創造している。だけど、僕の目から見ればそれは誰かの何かをパクったに過ぎない。


つまり、全部引用の産物なのである。何かに影響を受け、それを自分のなかに取り込み、あたかも自分のオリジナルのものかのように、再度、世に送り出す。大学生になって研究というものに触れるようになってから、きちんと引用元を明記するようになったが、明記するようになっただけで引用すること自体は続いた。著名な研究者に「安心しろ、みんなそんなもんだ、全部引用だ。そうじゃなくて完全に何もないところから作ったというやつがいたら、それは嘘つきか、神だ」と諭されたことがあった(もちろん直接ではなくて、その人の本を読むなかで)。なるほど、確かに言われてみればそんな気もする。でも、結局「僕ってズルいよな」という気持ちは晴れない。


ブリコルールという言葉に出会って、「僕はズルい」という気持ちが吹っ切れた。寄せ集めのもので新しいものを作る人たちに付けられた名前、ようやく自分を説明してくれる言葉に出会えた。そもそも「ズルいかどうか」という点においてはとくに何の解決方法も、新しい考え方も、方向性も示されていない。それなのに、なぜかこの言葉に出会った瞬間に、ああ、これでいいんだ、よかった、という安堵が溢れた。本筋からは逸れるかもしれないが、もしかしたら僕は、自分が模倣していて「ズルい」と思っていることにではなく、そうした自分が模倣を前提にしている以上自分一人で存在を確立できていないのではないかということに不安を感じていたのかもしれない。言葉がうまくまとまらないが、つまり、自分を端的に説明するラベルが欲しかったのかもしれない、ということだ。


寄せ集めの出たとこ勝負、確かに僕の人生を振り返るといつもそんな感じで切り抜けてきた気がする。付き合わされている周囲の人たちは気が気じゃなかったり、見通しが持てずにイライラしたりするかもしれないが、本人はこれで、結構、楽しい。