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とりあえず行かせてから考えよう。

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生徒が授業中にトイレに行きたくなったとき、僕に申し訳なさそうに言ってくる。先生すみません、お腹が痛いのでトイレに行ってきてもよいでしょうか。僕はいつも思う、なんで謝るんだろう、何が謝らせているのだろう。いいよ、当たり前じゃん、早く行ってきな、それでおしまい。


そういえば、僕が中高生だった頃お世話になりまくっていた某下痢止めも、CMではサラリーマンが通勤中と会議中に服用していた。通勤中は電車から降りられないシチュエーションだったからまだ分かる。でも、今思えば会議中のほうは、そのままトイレに直行すれば良いのではないか。会議は移動中の電車と同じ環境、〈出られない〉という要素が一致している、のだろうか。


誰だったか忘れたし、もしかしたから大学の講義で聞いた話だったかもしれないが、「生徒が授業中にトイレに行くことを許容すると、事前に計画的に行っておくことが身につかない」みたいな説明をされた記憶がある。さらっと流していたけど、なかなか恐ろしい。どこから突っ込んで良いのやら。


まず、「身につかない」のはそれがその生徒にとって身につける必要の無いことであるから。今回で言えば、「やっぱり授業とか学級活動とかの前には事前にトイレに行っておいたほうがいいな、そのほうが自分にとってもメリットがあるな」と思えていない。思えないのには、思えるほどの実体験(成功・失敗の体験)がまだ無い、そもそもそれほど切実なことでは無い、もはや必要になり得ない(こちらが必要と思い込んでいるだけ)、といった理由がある。ここで何かしらの動機にたどり着かないことには次には進まない(動機付けはひとまず外発的でも内発的でもどちらでもよい)。仕向ける側がこれを分かっていないと、シムケラレル側は身につけようとしないし、シムケル側は「なんでできないの?やらないの?」とヤキモキする。当たり前じゃ、必要ないんだから。身につける必要性を実感していれば、もう少し状況は変わってくるはず。


突っ込みその二、一億歩くらい譲って「身につけるべき」だったとしても、その場はトイレに行かせてやってくれ。学習機会と個人の尊厳は別々に保障してあげてくれ、頼む。言いたいことがあっても、あふれる気持ちがあっても、今は相手の方が行きたいところあるしあふれそうなものがあるので、こっちはいろいろ我慢して、事が済んでからにしよう。しかも、そんなに身につけるべきだと主張するのであれば、もっといろいろと学習機会、学習環境のデザインを見直すことが必要でしょう。「トイレは事前に行くんだよ」って声掛けを繰り返しおこなっていて、業間に教室移動や道具準備の時間を除いてトイレに余裕をもって行ける時間があって、トイレに行くことに抵抗感のある子への配慮(大便をしていることを悟られたくない等の悩みは意外と多い)もできていて、などなど、多分まだこっち側でできることはいっぱいあるはず。


最後に、そもそも排泄ってそんなに計画的におこなえることだったっけ、と思った。自分のこれまでの経験を振り返っても、突然やってくることはしばしばある。それがよりによって授業中だったからといって叱責食らうのは何とも言えぬ思いになる。授業中にトイレに行かれることよりも、そこで叱ったりして排泄に対する不安を煽って健康を損なうほうがよっぽど恐ろしいと思うのだが…


こういった問題を「社会生活を送るうえで集団として足並みをそろえたりその場の雰囲気を保つことも大事なのだよ」なんて言説で片付けようとする人がいたら、ちょっといったん話し合おう。