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代替可能性VS代替不可能性

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先日、職場で面白い議論があった。自分のキャリアをどう形成するかという話をしていたときのことである。

きっかけはスタッフの「キャリア形成で大事なポイントってなんですが?」という質問だった。僕がサラッと答えられるような質問ではない。が、そのスタッフは新卒で社会に出て数年経ち、そろそろ今の状態に落ち着きを持ち始めて日々が循環するようになったのだろう、不安を訴えるような目で僕に聞いてきた。紛らわすのは簡単だが、今期の僕自身の成果指標が従業員との関係構築であることもあり(というと酷く打算的に聞こえるかもしれないが)、ひとまずいけるところまで議論してみることにした。

話を進めていくと、個々の小題が2つの概念を共有していることに気づいた。それが「代替可能性」と「代替不可能性」である。

代替可能性とは、シンプルに言えば「交換可能か」ということである。代替可能性が保持されている例では、ボルトやナットのような部品系が挙げられる。もともと付属していたものが外れて無くなってしまっても、ホームセンターに行けば同じものが大量に売られている。代替可能性を保持するためには、規格などを定めて皆が同じものを作製、使用できるようにしている。

逆に代替不可能性は、「交換不可能か」の捉えである。スマホが欲しい!という気持ちには様々なスマートフォンで対応可能だが、iPhoneが欲しい!と言われたらもうそのニーズにはiPhoneでしか応えられない。ハンドメイドで形の異なりを売りにしている作品なども、それはそれしかそれでないという意味で代替不可能性を有している。

僕の職場ではこの代替可能性と代替不可能性が鬩ぎ合っている。キャリアを発達させると、直接支援を行う支援者から支援者を育成する育成者へと役割を移行させることが必要になってくる。プレイヤーだったものはエキスパートになり、そののちトレーナー的立ち回りを期待されるのである。もちろん、広く誰でも期待されやすい(ありがちなキャリアプラン)というだけで、スペシャリストを目指すような別の活躍の方法もある。だが、先達のスペシャリストの姿を自分に重ねて「私もいつか…!」と燃えられる人は少ない。変な話、スペシャリストとして大成するよりもトレーナーになるほうが容易なのだ。

そうして育成者を志すようになると、プレイヤーからエキスパートになるまでに求められていたキャリア発達とは真逆のことを求められるようになる。エキスパートになる過程では、経験値を蓄えて自分の支援の代替不可能性を見出していけばよい。誰でもできる支援を磨いて、自分だからできる支援を生み出していけばよい。しかし、育成者になった途端に、代替不可能な知識や技能は価値を失う。代替可能性が残存する程度の知識や技能をこそ、被育成者に伝送するように求められ、それができる人に価値が付く。「あなただからできるんですよそれは」と言われてしまう知識や技能ばかり広げて見せびらかしても、育成者としては何の生産もしていない(被育成者の遠い将来をモデル提示して成長への活力を提供することができればせめてもの救い)。

厳密に言うと、育成者の代替不可能性は<代替可能な知識や技能の伝送の高度さ>に移行している。その点で、引き続き代替不可能性がキャリア形成においては鍵概念になる。しかし、そこまでをすぐに見抜いて切り替えることは難しい。だから、安易に「属人化は悪!」みたいな言説が横行することになる。単純に「価値があるかどうか」という視点で見れば、代替不可能性があればあるほど価値が高まる。過度に代替不可能性を嫌うことは、自分を金太郎飴に仕立て上げ、価値の向上を否定することにつなげる。