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パンダは我が子を踏み潰す

子供の成長をどう認めていくのかについて。

子供たちは周囲の大人たちから「苦手なこと」「できないこと」を見られる(ことが多い)。子供なんだから苦手なことやできないことが沢山あるのは当たり前のことだが、その当たり前に沢山あるものを、一つ一つ改めて指摘され、「できないよね?できないですと言ってごらん」と言われるかの如く詰められる。そんなことをしていたら子供は「もういい!」となるに決まっているし、気に病むことが増えるのだって当たり前だ。ただただまっすぐに、不幸。

「周囲の大人」を悪く言いたいわけではない。周囲の大人だってその大半は「子供に接する」経験が少なく、未学習や誤学習があふれかえっているわけだ。子供は無邪気に大人の前へ到来する。こちらが準備万端かどうかなど関係なく、現れる。そうしたら、どうしたって目にしやすい「苦手なこと」や「できないこと」を話題にして関わることが、簡単で、行われやすい。しかも、大人と子供が共存すると、そこには自然と「教育」という言葉が意識される。そうなれば余計に、今よりもよい人生をその子に、と思って「苦手なこと」や「できないこと」を「得意なこと」や「できること」にしていこうと考えてくれてしまう。

「今よりもよい人生」を子供に願うことは悪いことではないし、とても良いことだと僕は思う。でも、そこに向き合うための手立ては、「苦手なこと」や「できないこと」にフォーカスすることに限る、わけではないとも思っている。

極端な話、子供は、大人になったときに社会の成員としての最低限の貢献(例えば納税)ができていて、あとは自分の好きなことができるような人生を送れればよい。そしてそれを自力で行えればよい。その好きなことが富や名声と紐づいていたり、立身出世を指していたらそれでも良いと思う。でも、本人がそう望んでいないのに、周囲がそれをその子に求めるのは違う。

以上の話が「そうだよね」と思える人は、「子供の成長をどう認めていくのか?」という問いに対して「それこそ本人に聞いてみないことにはわからない」と答えるだろう。なぜなら、進みゆく先がその人自身によってのみ描かれるものであるならば、たとえ未熟に見える子供であっても、その子供にしか進みゆく先は語れないからだ。

そう思うと、子供の成長を支えていくために僕らは、子供が自分の成長を自分で定義して他人にそれを語れるようになることを支援する必要があるのではないだろうか。自分の考えを持ち、自分の考えを主張し、自分の居場所と生きがいとを獲得する、そのために必要な知識や技能について習得の支援をする。そこだけを支援する。道を与えるのではなく、道の作り方を教える。道具を与えるのではなく、道具の借り方(揃え方)を教える。

最後に、子供のことを未熟で不完全な存在と思っている人たちへ。僕は、「騙されたと思って信じてみろ」なんてオカルトなことは言わない。未熟だとも不完全だとも思っていてよい。子供は実際にできないことも、考えつかないことも多い。でも、だからといって自分でやってみる機会を取り上げることはしてはならない。それこそ成長の機会を損なってしまう。むしろ、子供を未熟と思うなら、自分は熟した大人としてきちんと周りにマットを敷いてあげるべきだ。子供を不完全と思うなら、完全な大人として子供の失敗を予見して、軽傷で済むように環境整備してあげるべきだ。やってみる機会を取り上げてしまっては、失敗を回避できるだけでなく成功の可能性も失わせてしまう。

子供の成長をどう認めていくのかについて。当の本人抜きには語り切れない。本人を話の輪に入れるところから始めたい。