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言語学をきちんと学びたいなら ―『新・自然科学としての言語学 生成文法とは何か』

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言語学を学びたい、言語学を究めたい、そう思うのであればこの本を手に取ってみてほしい。 並大抵の興味関心では挫折を味わうことになると思う。斯く言う僕も吐血に吐血を重ね、喘ぎ嘆きながらなんとか読んだ。

別に意地悪でこの難しい本を紹介しているのではない。 この本のタイトルにもなっている「自然科学としての」という言葉を意識して言語学を捉えられるかどうかが、これから言語学を始めるうえでは大切だと感じている、だから紹介しているのだ。

もともと僕は生成文法に強い興味があったので(卒論にも生成文法の考え方を反映させている)、この本には「生成文法のこと知りたい!」という期待で臨んだ。 しかし、いざ読んでみるとそこには、《そもそも生成文法理論が言語学のなかでどんな使命を担っているか》や、《言語学がどうあるべきか》や、《言語学を学ぶうえではどういう過程を経るべきか》などのそもそも論的な部分に対する筆者の考えが広がっていたのである。

なかには以下のような、学術領域全般を見渡したコメントまで含まれている(少し長い引用だがお付き合いいただきたい)。

まず「人文系」の研究者にみられる生成文法への反応について考えてみよう.「人文系」の研究者には生成文法に限らず「科学」というものに一切興味を示さない人達がいる.これはそれ自体では何ら批判すべきことではない.人はそれぞれ異なった個性をもち,それに伴って異なった興味を有しているのであるから,ある人が「科学」に興味を持たないからといって,それはちょうどある人が音楽に興味を持たないということが批判に当たらないのと同様に,個人の問題でありその当否を論ずることはできない.
ただ問題は,この「科学」に対する「無関心」が往々にして反発・敵意に転ずることがあることである.これは,おそらく,物理学を中心とする近代科学がその劇的成功(と技術への応用価値)に伴って手に入れた社会的権威のようなものに起因しているのだと思う.「あなたの物の捉え方は非科学的だ」という,本来は事実的言明に過ぎない命題がしばしば相手への批判か侮辱として解釈される背景には,近代科学が有する社会的権威が明らかに存在している.

最終的に「自然科学としての言語学」を扱うのか,そうでない言語学を扱うのか,そもそも言語学から離れるのか,どんな結末になったとしてもこの本に出会えたことは何かしら糧になると思っている。

(もちろん,生成文法を学びたい人にとっても非常に有意義な本である。私は生成文法の基礎的理解のほとんどすべてをこの本から得た。)

【書誌情報(本記事投稿時点での情報)】
タイトル:新・自然科学としての言語学 生成文法とは何か
著者:福井直樹
発行所:株式会社 筑摩書房
発行年:2012年12月
ページ数:360頁