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「依存の基準ってなに?」と聞かれました:後編

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辞書に書いてあったこと(前回の記事を参照されたし)に戻りますが、「依存」は「他に頼って在ること、生きること」だそうで、これはなかなか勇気がいることだと思います。何に勇気がいるのかというと、「頼る」ことです。ちなみに「頼る」を調べてみると、「たのみとする。つてを求めて近づく(コトバンク)」や「助けとして用いる。依存する(コトバンク)」と書いてありました。あら、早速循環しましたね。「依存」の説明に使われている言葉(頼る)の説明に「依存」が使われてしまっています。こういうのを循環参照とか循環定義と言ったりしますが、このことについては今回取り扱わないでおきます。こういう話は言葉や意味の脆弱性とそれでも言葉を使わねば生きていけぬ人間の愚かさについて考えるときにとっておきます。いつ考えるかもわかりませんし、決めてもいませんが。

話を戻して、僕は「頼る」というのは勇気がいることだと言いました。つてを求めて近づいたり、助けとして用いようとするのには勇気がいると考えています。そしてそれは「頼る」対象が他の誰かであるときに顕著だと思っています。

例えば杖に頼って歩くようなときは、杖に対して勇気を振り絞っているとはあまり思いません。杖さんに失礼かもしれませんが、杖のような静物は僕(=頼る側)の意思にある程度従ってくれます。もちろん壊れたりとか、意図に反した使い心地だったりとか、そういった予想外はありますが、せいぜいその程度です。つまり、発生した瞬間は「え?いま?」と不意を衝かれた気になりますが、すぐに「まあ、そのうち壊れるよね、そりゃそうだ」と意思のなかに取り込みなおすことができます。なので、端的に言えば静物はほとんどこちら側の我儘が通用する相手なので、構図としては頼っている状況であっても、もはや頼っていると思っていない、とも言えるかもしれません。こういう相手(=静物など)には勇気はいらないです。でも、そうでないもの、心があったり思考が働いていたりするものが「頼る」相手である場合はとても勇気が必要になります。

頼りたいと思っている局面では、相手から予想外の反応をされたり、反発されたりするのは気持ちよくありません。そもそもこちらは「つて」や「助け」が欲しい状態なので、それが手に入らないのはしんどいわけです。でも、自分自身が日々刻々と変化する動物(アニマルではなく、goerのような、動的なものというニュアンス)であるように、相手も気分や置かれている状況などが変化し続けているわけで、こちらの「頼る」という行動に対してどのような反応を示すかはその時々で変わります。だから誰かに「頼る」のはうまくいくかもしれないし、うまくいかないかもしれないことなのです。ゆえにうまくいかないのが怖い人、失敗とかそういうのが苦手な人にとってはとても難しいことだと思います。そういう意味で僕は「頼る」ということが勇気のいることだと言っています。

だから僕は「他に頼って生きる」=「依存」ができるというのはすごいことだと思っています。ただ、すごいことだから受け入れられるべき、というふうには思いません。なので「依存」が苦手、無理という人はどうぞ避けて生きてください、と思います。でも、その場合でも「依存」を攻撃したりはしないでほしいなと思っています。ほっといてください。もし自分に誰かが「依存」しているかもと思って、なおかつそれが嫌だというのであれば、撃退するのではなくそっと離れてください。しつこくついてくる人には…仕方ありません、そういうときは多少強く言ってもらうしかないでしょう。それでも極力、穏便に済ませていただけたら幸いです。

そもそもなんの話だったっけ?といまさら冒頭部分を見返してみて、ああそうだ、「依存」の基準を聞かれたんだと思い出しました。そしてその「依存」の基準というのは「ある人がその相手に依存しているかどうかの基準」だそうで、はてなんと答えましょうか。悩ましいですがちゃんと答えてみます。

まず、基準がどこにあるのかについてですが、僕は基準は「依存」する側の捉え方にあると考えます。例えばAさんとBさんがいて、AさんがBさんに何かを頼っているとします。そのときにAさんが(Bさんに)「依存」しているかどうかは、周囲の誰かが決めるのではなくAさんが決めるのだ、ということです。だから、CさんがAさんとBさんのやりとりを見て「AさんはBさんに依存してるね」と言ったり、AさんがCさんに「私ってBさんに依存しているのかな?」と聞いて答えを得たりするのは、僕に言わせればあまり意味のないことです。意味がないというと強すぎますが、Aさんが「依存」しているか否かを決めるにあたってはどうでもいい情報である、ということです。他人がどういう印象を持つかなどの別の問いに対しては有効な情報かもしれません。

なぜ僕は「依存」の基準を言動の本人の捉え方に位置付けるのか。これはとてもシンプルな話で、言動の数々が「他に頼る」ためのものであるかどうかは、本人にしか分からないことだからです。話をわかりやすくするために極端な例を用いますが、子供が大人に「だっこ〜」と言って抱っこしてもらったとします。この抱っこが仮に、子供が疲れていて自分で歩くのが面倒で、近くにいた大人にかわりに歩いてもらいたいという意思のあらわれであれば、「他に頼る」ためのものであり、「依存」と言えるでしょう。一方でただ遊びたいだけ、抱っこの関わりをしたいだけ、ということであれば、これは「依存」とは言えません(ただ、遊びであっても、他に遊ぶ相手がいなくて特定の相手ばかりに遊び相手を頼っているような状況であれば、それは「依存」と捉えられるでしょう)。このように言動と「依存」か否かという判断は一対一で対応づけることができず、なおかつ判断の基準は本人の意図によらざるを得ないわけです。

次に、いよいよ本命の「依存」の基準についてですが、これはすでに何度も書いているとおり、〈他に頼っているという自覚があるかどうか〉というのが回答になります。それ以上の言葉は特に必要ないと思っていて、本当にシンプルに「あ、自分いまあの人に頼っているな」と思ったらもうそれは「依存」だよ、くらいの認識です。僕は「依存」が日常的に頻発するものだと思っているので、基準もこんな感じです。

ここまでの話をまとめると、僕が受け取った質問は「ある人がその相手に依存しているかどうかの基準ってなんですか?」で、それに対する回答が「依存する側の人が相手を頼っていると自覚しているかどうか」で、「依存状態か否かの判断は依存する側の人が自分自身でおこなう」という注記付きです。

どうでしょうか、あなたの「依存」の定義、世間一般で使われている「依存」の定義とどの程度距離のあるものだったでしょうか。思考のヒントになれば幸いです。

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