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【clipping】主体は従属している

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clippingシリーズは、様々な文献や映像作品のなかから、僕の独断&偏見で切り取った「超局所的レビュー」です。
超局所的なんだなと思って読んでいただけると気持ちが楽です。


結局「主体」って何なんすか?ということに対して、ビースタはサルトル引きーのハイデガー引きーのアレント引きーのでなんとか説明しようとします。アレントの「行為」に対する考察を踏まえてビースタは、とりあえず「孤立した状況では、私たちはけっして主体として存在することができない」よねと言っています。これだけ見るとすごく当たり前のことを言っているように見えますが、僕からすれば〈いまの教育で言われてる「主体性」ではここの観点まったく抜けているよね〉です。

もうちょっと説明を加えます。アレントが「行為」を分析しているなかで強調しているのが、行為はその行為の始まりと結果の二つの要素に分けることができ、行為を行う「主体」はその始まりと結果を、たとえいかなる状態になろうとも甘んじて受け止めなくてはならない、ということです。例えば僕が友人にチョコレートをあげたとします。僕が心の中で「こいつ、喜ぶんだろうな」と思いながら渡しても、友人が実際にチョコレートを貰って喜ぶかどうかは分かりませんよね。喜ぶかもしれないし、喜ばないかもしれないし、なんなら断られたり、縁を切られたりする可能性もあります。でも、僕はそのどんな結果であっても、それをきちんと受け止めないと「主体」でいられないのです。だから、「主体は従属している」のです。そこで思想統制やらなんやらを駆使して、「チョコレート万歳!」なんて言わせようものなら、そのときはもはや僕は「主体」ではないのです(この考察に至ったアレントの置かれていた状況が色濃く反映されているような考えですね)。

いまの教育で言われている「主体性」って、どちらかというと「意欲がある」とか「意識高い系」みたいな状態を志向して使われているように感じます。だから、主体的な学び手というのは目がギラギラしていて学習の進捗にフルコミットしている感じです(ちょっと言い過ぎですが)。でも、この状態の学び手って、もしかするとビースタの言う「主体」を滅亡させるのではないかと思ったりします。どういうことかというと、まず、学び手の意欲を高めるときに、指導者がそのやりかたを間違えると、〈指導者の方針にいかに従っているか〉みたいなゲームになってしまうと思うんです。すると、その指導者が学び手に対して「主体」でいられていない(なぜなら学び手が指導者万歳になっているから)ことになります。そして、その学び手も指導者の期待する行為を行うことによって予定調和的に指導者からの期待通りのレスポンスを貰うようになり、「主体」としての価値を失います。そうなったときに、教育方針として掲げている「主体性」は保障されつつ、ビースタが指摘する「主体」が存在しない状態が生まれます。

これは大変まずいことです。なぜまずいのかということをきちんと説明しなくてはなりませんが、それはまた今度にいたします。少しだけ方針をお伝えすると、ビースタのいう「主体」が存在しない教室においては、その教室の総和をもってしても生み出せないような〈誰も出会ったことのないような結果〉が生じた際、その結果に「従属」してあらたな気づきとすることができず、予定調和を乱す存在としてはじいてしまうことになり、そこにいる誰もが思いもよらなかったようなまったく新しい学びに対して受け取りの姿勢を取れなくなってしまうのです。これは非常にまずい、まずいです。

【書誌情報(本記事投稿時点での情報)】
タイトル:教えることの再発見
著者:ガート・ビースタ著/上野正道監訳
発行所:一般財団法人 東京大学出版会
発行年:2018年8月
ページ数:179頁