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研究について考えてみた。

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以前、研究について学部生相手に偉そうに持論を展開したことがあったので、そこで話したことをメモしておく。相当偉そうに、ほとんど説教の如く展開したので、これで忘れてしまってはダサいというのと、自分自身の思考のプロセスをあとで追いたい、というのが目的。

研究と一言でいっても様々なものがある。小学生が夏休みに宿題としておこなう自由研究や、高等教育機関で学位論文としてアウトプットされる研究、研究者の生業として展開される研究。僕からすれば、好きな女の子に振り向いてもらうためにあの手この手でアプローチする少年が行っている調査や分析も、競馬等の賭事におけるデータ収集・分析も、立派な研究と言える。

これほど様々なものがあっても、それらはおおよそ以下の工程に収れんされるし、収れんされるものであればすべて研究であると考えている。

① 何かしらの目的が強烈な動物的情熱によって生じる。
② 目的を達成するための大まかなプロセスが企てとして設計される。
③ 企てを具体的に実行していくうえでのアルゴリズムが組まれる。
④ 組まれたアルゴリズムに沿って調査・分析・考察等の研究行為を実施する。
⑤ ③~④の精度を検証し、アルゴリズムや企ての見直しを行い、目的達成に近づいていく。

逆に言えば、この①~⑤がきちんと含まれているかどうかが、研究であるかどうかの見極めの観点になる。

どうしてこんなことを学部生に説明したのか。それは、そこにいた学部生の研究に①を全く感じられなかったからである。

小綺麗に整えられた発表のレジュメには、どんな研究手法を採用したかとか、どういった結果が得られたかとか、そういった類のことばかり書かれており、なぜその研究をおこなっているのかは全くと言っていいほど触れられていなかった。まるで「研究って大学生の永遠のトレンドでしょ、だからワンポイントで取り入れてるの」と言っているかのような身の入っていないレジュメばかりだった。

いいとかだめとかそういった次元の話ではない。もっと根本的なところの「楽しいのかな」という疑問である。

アルゴリズムが組めなくたって企てがうまく設計できなくたって、強烈な動物的情熱さえあればいつでもやり直すことができる。新しい昆虫を発見したい!でもいいし、好きなあの子を振り向かせたい!でもいいし、万馬券を的中させて大金持ちになりたい!でもいい。ちょっとやそっとのことじゃ折れないような強い情熱があれば、それ以外は何度でも考え直すことができる。

①についてはどんなに幼くてもじゅうぶん生じさせることができる。②、③、④と進めば進むほど、経験が精度と直結する。つまり、むしろ学部生などのうちは①だけで突っ走って、周りからの助力を得て②以降を作り上げていくぐらいが自然なのではないか、ということだ。

それが①をなおざりにして②もそこそこに、③とか④とかばかりに目を向けている者が多すぎる。そんなことするくらいなら、いっそのこと研究すること自体をやめてしまえばいいのに、と思う。

やりたくないことを「やりたくないから」という理由だけで切り捨てられるのが現代の「さとり世代」「つくし世代」の強みではないのか。それすら出来ずに、動物的情熱の無い研究ごっこを空転させている学生の多さに衝撃を受けた。