home > boku-no-ecrits > 「依存の基準ってなに?」と聞かれました:前編

boku-no

「依存の基準ってなに?」と聞かれました:前編

Pocket

最近、人に「依存の基準ってなに?」と聞かれました。「依存」の「基準」。とっかかりがなさ過ぎて、そのまま「え?何を聞かれたんだろう?」とわからなくなりました。それで、まったくなにも考えつかないままで「基準というのは何を判断するもの?」と聞き返しました。質問に質問で返したわけです。相手は、「ある人がその相手に依存しているかどうかの基準」と答えてくれました。答えてもらったのによくわかりませんでした。依存しているかどうかの基準を考えるには、まだまだ情報が足りないのだというのはわかりました。

僕は人によく面倒なやつだと言われます。自分でも多分そうなんだろうと思っています。それで、面倒なやつである理由というのはそれはそれはたくさんあるのだと思いますが、自分でも心当たりのものがあります。それは言葉でやりとりをするときに顕在化します。

今回「依存の基準」を聞かれたときにも同じ面倒くささが発動したわけですが、それは、「ひとつひとつの言葉の定義をきちんと確認しないと話を前に進められない」というものです。僕が言葉でやりとりをするときには、相手と自分とで言葉の定義がどう違うか、同じかを確認しないと話ができません。だから出会ったばかりの人は「はじめまして、僕のこの言葉の定義は…。それで、あなたのこの言葉の定義はなんですか?」みたいなことを延々とやります。どれくらいやるかというと、話題のなかの大事そうな言葉の数だけやります。だから、今回であれば「基準」だけでなく「依存」の定義について話したいわけです。それでようやく、二人の依存の定義がわかり、それをもとに「依存しているかどうかの基準」を考えられるわけです。

ただ、実際はもっと面倒です。なんだ、ちょっと面倒なくらいじゃん、と思った人はまだこの沼の深さをわかっていないです。いいですか、辞書を思い出してください。紙でも電子でもなんでもいいです。言葉の意味が知りたくて辞書を引くと、どうやって説明されていますか。そうです、言葉の意味は言葉で説明されています。もちろん図などが補われていることもありますが、補足的なものがほとんどで、基本的には言葉を読んで意味を知ります。もう分かりましたね、そうです、その意味を記述するのに使われている言葉のなかにも、定義の確認が必要になる言葉が出てくるのです。つまり今回の「依存の基準」だって、「依存」と「基準」だけだと思って確認を進めていったら、もっとたくさんの言葉たちの定義の確認が必要になったりするのです。聞いているだけでゾッとしませんか。僕は自分のことなのにいつも考えて憂鬱な気持ちになります。とにかく膨大な時間を使って、ようやく最初の質問の答えを考えるフェーズに進むわけです。

もちろんこれまでたくさん話をしたことがある人などは、すでに共有している定義がいくつかあったりするのでスムーズになります。ただ、これも僕のせいで面倒なことになっているのですが、僕はちょこちょこ言葉の定義を捉え直してしまったりするので、そうなると相手にアップデートを依頼します。効率が悪いシステムで生きているというのはわかっているのですが、どうしてもこうするしかありません。分かっちゃいるけど、やめられねぇ、ア、ホレ…。

それで、今回はこれで終わりではなくて、ちゃんと依存についても考えていきたいと思っています。依存。まずはどこから考えたらいいかわからないので辞書を引いたりします。入口を決めるためにサクッと知りたいだけなのでネットで調べた程度で大丈夫です。「他に頼って在ること、生きること(コトバンク)」。なるほど、〈他に頼っていること〉がポイントらしいです。程度の差や印象の善し悪しなどについては特に言及がありませんでした。ただ、ページを一つ戻って「依存」の検索結果を見ると、上位に厚生労働省の「依存症」についてのページが出てきます。「依存症」は「症」とついているくらいなので、ページのなかに入るとどんよりした内容が盛りだくさんでした。あとは「依存体質」という言葉も目に入りました。そしてそれはどうやら「克服」しなければならないことだそうです。なるほどなるほど、どうやら「依存」という言葉は社会ではあまり良い印象を持たれていないようです。

なぜ「依存」があまりいい印象でないのか、僕はそれがよく分かりません。先に言っておきますが僕は自分のことを「依存」しがちな人間だと思っています。だって他に頼って在る、生きるのが依存なんですよね?逆に言えば、他に頼ってないときが依存ではないということですよね、だとしたら僕はそんな時間がほとんどありません。いやさすがに「普段食べてる食材のひとつひとつだって誰かに作ってもらってるだろ?」みたいなずるいひろげかたはしません。そんなことしなくたって僕は依存まみれです。しかも、話は逸れますがさっきの食材の例、依存の極北の例のように使えそうですが、今の社会のルールに乗っかるなら購入してる時点で交換が成立しており、手切れだとも捉えられます。話を戻しますが、交換で説明がつかないような他人からのギフトを日々受け取りながら生きているので、僕は依存まみれ人間です。だから、社会での依存の印象が良くないなら、僕も良くない人間ですね。別に構いません、だって依存しないと生きていけないと分かりきっているし、むしろ自立ってすげー!もはや幻想じゃない?くらいに思っているからです。もしかしてみんな依存したくないんじゃなくて、自立していたい、自立して欲しいと思ってるから対義語の依存を貶めているのかもしれませんね。そうすれば相対的に自立が大事みたいになるから。

でも、もし仮に僕が今言ったように「自立が大事って言いたいから依存を貶める」というのが本当の狙いなんだとしたら、それを推進する皆さんに是非とも言いたいのは「だったら自立をもっと礼賛してみんなでいかに自立していくか話してください」ということです。自立が大事なら自立に直接アプローチしたらいいじゃないですか。なぜ依存を貶めるのですか?もしかして…気づいているんじゃないですか、自立ってチョーすげー!そして無理ー!って。でもみんなで追いかけたい、俺は自立してるぜって言っていたい、だからとりあえずいじめやすそうな「依存」をいじめて、それを自立の対義語ということにして、二項対立戦法で自立を礼賛した気になろうとしているんじゃないですか? 僕は自立に固執していないので自立を頑張って応援するようなことはしません。むしろ依存万歳なので「依存」についての話を続けます。(次回に続く…)

===========================
僕のLINE公式アカウントを友達に追加していただくと、
エクリの更新通知を受け取ることができます。
もしよければ登録してみてください。
→登録はこちらから←
===========================