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「言語技術」推しの反省会

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僕は学部時代から「言語技術をきちんと時間とって教えようぜ」というスタンスを貫いている。ここでの「言語技術」は、文法や文章法全般のことを指している。てにをはレベルで整った文を目指したり、文末表現を文章全体で統一させるよう意識したり、文章構成を内容と一致するように調整したりするときに発揮する知識全般だ。

魅力的な題材をストックできても、文章としての美しさがそれだけで保証されることはない。逆に言えば、ナンセンスな文章でも読ませるための要点をきっちり抑えていればなんとなく読めてしまう。

題材を見つけてくる時点では優れたものを持ってこれている人でも、いざ文章にする段階になると小手先だけの技術フリークに成果物で負けてしまう。それで文章で表現すること自体めんどうになってしまって、どんどん取材力のある人たちが文章表現の場から離れてしまう。構造あって中身無し、そんな文章ばかり量産される世の中になってしまう。

だから僕は母語でもちゃんと言語技術を教えようよ、とずっと言い続けている。

しかし、この僕の主張は深刻な問題を孕んでいることに最近になって気づいた。

それはとてもシンプルなことで、「お前、言語技術を推すとき、文章の書き手に良い題材や強い意欲を前提として期待しているだろ」ということだ。つまり、すでに説明の時点でも暴露されている通りで、言語技術が推せるのは書き手に題材や書く意欲がある場合に限られている、のである。

厳密に言うと、「気づいていなかった」というよりは「それがそんなに前提にしにくいことであるとは思ってもみなかった」という感じ。だから、関心だ意欲だと騒いでいる作文研究を参照しても、「書き手のことを信頼していないのか?」と寒気がするだけで、そんなこと考える必要ないと思っていた。

けれども、「さとり世代」という言葉が流行語大賞を取って久しいこの世の中で、関心や意欲は脅威としての存在感を強めている。こんな状況で言語技術を積極的に教えたところで、徒労に終わる未来が容易に想像できる。

皮肉にも、このタイミングで科目としての「国語科」で「知識及び技能」が増強されることとなった(例えば小学校では平成32年度より全面実施)。これが単に「伝統的な言語文化と国語の特質に関する事項」からの名称変更にとどまるのであれば心配する必要は無い。しかし、項目の順序宜しく前景化するのであれば僕の不安は的中してしまうかもしれない。

かつて「ゆとり教育」が子育てスタイルの変容によって巻き添え被害を食らったのと同じように、今回の「言語技術」への傾きも若者気質の変容に巻き込まれるかもしれない。そうなれば、本質的な批判を得ることなく、ただただ上滑りの非難を食らい続けることになるだろう。

また来るのか、言語技術の暗く長い氷河期が…

言語技術推しとしては反省が尽きない。