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「つくし世代」が難しいという話

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僕の親は年代的に見て「新人類」。ということは僕は「新人類ジュニア」なわけだが、世の中は僕らを「さとり世代」という名前で呼ぶようになった(結構前の話)。そんな「新人類」の子供が「さとり世代」と呼ばれながら苦心して取り組んでいるのが、「つくし世代」のマネジメントである。

「ゆとり」と「さとり」と「つくし」、最近の世代名を捩れば名前の可愛らしさとのギャップが甚だしい、かなり手強い三兄弟が出来上がりそうな予感。この三兄弟の末っ子にあたる「つくし」が今回の主人公、僕の頭を悩ます新世代である。

「つくし(土筆)」と聞けば「久しぶりに根っこの強い頼れる世代が来たじゃないか」と体育会系中高年が好意の眼差しを向けるかもしれない。残念でした、「つくし」は「尽くし」なんです。

「つくし」たちは《他人に尽くすことこそ最善である》を人生の命題として掲げ、「あーね」と「それな」を合言葉に共依存のネットワークを張り巡らしていく。自分のネットワークに脅威をもたらしそうな存在は、無闇矢鱈な打払令でバッサバッサと切り捨てる。その思い切りときたら凄まじく、昨日まで仲間だった者でも平気で「ブロック」する(つい最近まで「バン」という呼び方が一般的だった追放行為も、今では追放する側を擁護するかのように「ブロック」という名称に置き換わった。そうせずにはいられないほど追放行為自体が常態化しているのである)。

共依存ネットワークの構成員は尽くし尽くされることで麻薬的リゾームへの帰属を許される。しかし、その副作用は恐ろしく、自分もいつか「ブロック」されるかもしれないしそれは突然次の自分の言動によって引き起こるかもしれない、という不安感に常に苛まれるのである。和かな笑顔を顔に刻みつけて、常に自分以外の他者全てに愛想を振りまき続けても、その甲斐虚しくいとも簡単に弾き出されてしまう。

だから「つくし」のマネジメントは難しい。ひびが入ったガラスのように、少しの衝撃も許されない。だからといって余所余所しく腫れ物に触るような接し方を続けてもいけない。共依存を志向する「つくし」たちにとって、オブラート1枚ですら深刻な絶縁体たりうるからだ。

マネジメントする側は、手を伸ばしても届くか届かないかくらいの距離に素っ裸で居続けることを求められる。傷つける用意が無いこと、侵害するつもりが無いこと、かといって距離をとって避けることも無いこと、そういったことを全て常に伝えなければならない。その前提のもとに、尽くし、尽くされる関わりをするのである。

今は「ブロック」されることだけ回避して、慎重に色々と関わり方を変えてみている。「これだ!」とコツをつかめる日は来るのだろうか…