home > boku-no-ecrits > 《プロトなんちゃら》の発想

boku-no

《プロトなんちゃら》の発想

Pocket

プロトタイプって言葉ありますよね。カテゴリの典型例的な意味でのプロトタイプではなくて、デモンストレーションとか試験とかで使われる試作品的な意味のプロトタイプです。それの話をしたいです。

大学院進学を決めた学部3年生の冬(秋だったかもしれない)、当時第1志望だった京都大学大学院(言語学)の説明会に参加したんです。そのときに、分野別の説明会に入る前の全体のオリエンテーションで面白い話を聞いたんです。

我々がおこなっている研究はプロトサイエンスです。未科学です、非科学ではありません。科学としてすでに見通しの立っていることを研究するのも、それはそれで価値がありますし、楽しいことであると思います。でも、うちではそれはやりません。やるのは未科学、まだ科学としての見通しが立っていないけれど、これから科学になるであろうことです。私たちが研究のフロンティアラインを押し拡げていくのです。科学になったあとのことは他大の我々よりずっと優秀な方々にお任せすれば良いのです(僕の記憶と当時のメモより再構成)。

なるほど、非科学ではなくて「未(プロト)科学(サイエンス)」という考え方ができるのか、とうんうん頷きながら聞いてました。僕はそれまで人文科学の中でも文学や国語学(計量国語学などの統計学的手法をとらない分野のほう)、言語哲学などを中心に学んでいました。そのせいもあって、自然科学的権威に従属した《これは科学か非科学か》という尺度でしか科学を見ていませんでした(そもそも自然科学的権威に従属しなければ、定性的性質の強い分野もれっきとした科学ですが)。そしていつも決まって、《僕がいまおこなっているのは非科学的営みであって技術への応用価値もなく、個人の趣味程度に収束する方がむしろダイナミズムを発揮できるだろう》という感じで妥協していました。

でも、もし、これが未来の科学を支える未科学なのだとしたら…そう考えてゾクゾクっとしました。考えてみれば古来からどの学問も哲学的思想にルーツを持っていたり、ノーベルなんたら賞に選ばれるような知見も発表当初はその時代の科学が扱えないような仮説だったりするわけです。

そして、この考え方はどんなことにも転用できると思います。「この考え方」というのは「未(プロト)〜」です。まだこの世界では捉えきれないけれど、未来で捉えることが出来るようなもの、そういったものを考えて生んでいく力が必要だと思います、僕らには。

例えばモラル。

2020年より全国の小学校で完全実施となる改訂版学習指導要領では、モラルを教科として扱います。このとき教えるべきことはなんでしょうか。学習者が考えるべきこと、指導者が提案すべきことはなんでしょうか。

そうです、《ポストモラル》です。法律だの実際に起こった事件だのを突きつけて、既存の固定された(固定されたと思い込んでいるのも恐ろしいけれど)モラルに収束するようしむける学びはもう成立しないのです。その学びの次の日には子供が親の3Dプリンタを使って殺傷能力のある銃を印刷してるかもしれないのです。《まさか》とか《想定外だった》で逃げ出したらきりがないほど、様々なことが起こるのです。だから、《まだモラルになっていないが、今後モラルになるであろうこと》について考える必要があるのです。取り扱った議題が《ポストモラル》たりえていれば、きっと指導者も学習者と同じ側で議論に参加する感じになると思います。そういった議論が、今、本当に必要なんだと思うわけです。

未来との距離がどんどん縮まっています。

10年後が未来だった頃と違い、今はもう明日が未来かもしれません。《プロトなんちゃら》の発想は、このスピード感の中で穏やかに過ごしていくうえで大切だと、そう思います。