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「定量」アレルギーのスタッフとその管理者

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ぜんぶ「定量」のせいだ

うちのスタッフに、定量的な評価尺度で目標立てられない人がいて困ってるんだよね。
僕が準管理職レイヤーに滑り込んでから、この手の相談をよく受けます。「定性的な感じならいけるんだけどさ、やっぱ定量的になると難しいのかな…」とか、「対人支援て根本的に定量的には評価できない仕事だからね…」といった感じです。

愚痴にすらなりかけているこれらのお悩みたちの主訴をざっくりまとめると、《目標の観点は良くても、定量的に評価することが社内の方針として決まっている以上、評価尺度が定量的でないと評価しようがないし、本人に評価尺度を定量的にできる技量が無いことが多い》です。

僕はこういう人に出会ったときに、いつも次のような質問をします。

「そうですね〜本当に難しいですよね。でも、そもそもなんで評価尺度を定量的に設定する必要があるんでしょう」

そうすると、「うーん、会社の方針だから?」(思考停止パターン)とか「定性的じゃないほうがいいから?」(循環パターン)とか、なかなかヒヤヒヤな説明がズルズル出てきます。なるほど、ぜんぶ「定量」のせいにして片付けようとしてるだけで、もっと前の段階から理解を深める必要がありそうだ、ということがわかります。


「評価」はインタラクティブなもの
そもそも「評価」とはどう捉えられるのでしょうか。おそらく古典的(というか慣習的?)には、評価者が被評価者に対して一方的に提示するもの、という捉え方があると思います。まず被評価者は評価者の前で何かしらのパフォーマンスをします。そして評価者がそれを見て、事前に策定された評価項目と照らし合わせて評価を決めます。最後に評価者から被評価者に「評価」が伝えられます。こうして一方向的に提示された「評価」は、よほどのことがなければこのまま変更されることなく定着します。

この古典的な方法にもメリットはあると思います。例えば、少ないコストで多くの被評価者を評価する場合はこの方法が向いています。評価者と被評価者の関係性を従ー服従の構図で固定したいときにも効果的かもしれません(もちろん、そんな構図は好ましくないですが)。

でも、僕は「評価」はインタラクティブなものだと考えています。「評価」が目指す目標も「評価」を定めるために用いる評価尺度も最終的な「評価」そのものも、全て評価者と被評価者との間で行われる対話によって決定されるべきだと考えています。だから、両者が納得のいく対話をおこなえるように様々な調整が必要です。なかでも特に重要なのが、《言語の調整》です。


「定量的」は方法であり目的ではない
《言語の調整》とだけ聞くと、どれだけ大掛かりなことなのかと思うかもしれませんが、大まかな方針としてはシンプルです。文字通り、《両者が同じ言語を話せるように調整する》のです。ここでいう言語というのは、もちろん日本語や中国語や英語…というカテゴリではありません。背景知識、語彙、論理などによって形作られる、そのコミュニティ独特の方言のようなものです(曖昧で御免なさい)。

例えば背景知識であれば、両者がこれまでどういった経緯でここにいるのか、今回の目標設定にどんな願いがあるのか、被評価者はどんな自己成長を志しているのか、評価者はどんな成長を期待しているのか、などです。お互いのものの捉え方や切り出し方などもこの背景知識の段階で共有、調整されている必要があります。

次に語彙。ここでいう語彙とは辞書のようなものです。両者がもし全く違う辞書を参考に話をしていたら、同じ単語でも全く違う意味を持っているかもしれません。単語ではなくて語彙にこだわる理由はそれです。単語ベースで考えてしまうと、単語が所属している語彙によって全然使われ方が変わってしまうことがあるのです。ここの調整はかなり難しいです。そして、対立やすれ違いなどが生じている際はかなりの確率でここのエラーを見過ごしています。同じ単語でも引いてる辞書が違えば意味も違う、まずはこの認識を強く持つことからはじめる必要があります。

最後に論理。今回の「定量的」がどうたらこうたらの問題は、この部分でのエラーです。論理をシンプルに言い換えるなら、筋道とか枠組みとかが妥当かなと思います。背景知識と語彙が荷物の中身だとしたら、論理はそれを詰め込む箱や輸送する仕組み全般です。中身の段階で調整できても、箱や輸送の仕組みが調整できてなければ届かないのです。背景知識を共有したうえで同じ単語を同じ語彙から引っ張ってきても、並べ方や見せる順番が違うと全体としては全然違った印象を持つことになるのです。

ここまでくればだいたいイメージできたと思うのですが、定量的か定性的かなんていうのは目標を達成するための方法の一部に過ぎないのです。本当にパズルの1ピース程度の話です。しかも、方法の一部ということは、掲げた目標やそれを達成するための具体的なプロセスがきちっと明確になっていれば、「定量的な評価尺度」なんて考えなくてもスルスルっと自然に出てくるものなんです。良い例になるか不安ですが、一つ例を出してみます。

「ものを切りたい!」とある人が言ったとします。子供が自分に言ってきた…とイメージすると分かりやすいかもしれないです。あなたはおそらく「何を切りたいの?(対象の特定)」とか「なにで切りたいの?(道具の特定)」とか「なんで切りたいの?(理由の特定)」というように質問をすると思います。でも、もし「料理をしてみたいから大根を切りたい!」と言われたら、多分それは包丁で切るんだろうと予想がつくと思います。

《定量的な評価尺度で評価する》というところを固定して目標設定するのは、《包丁を必ず使う》ということを固定して料理をするのと同じようなことです。それが悪いことだとは思いませんが、すれ違いや行き詰まりが生じるリスクは大きくなります。

だから、たとえ《定量的に評価する》ことが決まっていたとしても、まずは決まっているような様子は全く見せずに相手の願いや思いを聞き、そこから対話的に目標などを組み立てていくのが良いのです。そのなかで、定量的に評価尺度を設定できそうなところがあればそれを設定すれば良いし、本当の本当に考えを尽くしても定量的な評価が難しいのであれば、そのときは定量的に評価すること自体を見直してほかの定量的に評価している人たちとの整合性をつけるなり、合意形成をしたうえで別の目標を設定し直すなりすれば良いのです。

目的と方法の主客転倒、これだけは避けたいものです。主客転倒した目標なんて、たとえ定量的に評価できたとしても、そもそも掲げたいと思えませんから。