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情熱なきモラリスト

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先日、子育て真っ最中のお母さんと「どんな子にはならないで欲しいか」というテーマについて話した。

普通は「どんな子に育って欲しいか」で話すだろうが、最近この《サイアクから考える》という考え方を意識して使ってみている。教えてくれたのは若者就職支援協会の黒沢一樹代表。ざっくりで申し訳無いが、《未来予想図をポジティブ思考ではなくネガティヴ思考で描いてみて、そのサイアクの想定からいかに回避するかを考えていく》といった感じの思考フレームだ(黒沢さん、雑でごめんなさい)。

子育てに活かせると直観したのである。

親御さんは日々、先の見えない不安を抱えながら育児をしている。セーブデータに戻ってやり直すことが不可能な育成ゲーム(と例えたら誤解を招きそうだが、あくまで例えなので悪しからず)を24時間365日プレイし続けているようなものだ。「いま自分が寝てていいものか」と、寝ることすら不安になってしまう(こともあるらしい)。しかも、巷には攻略サイトや攻略本が溢れかえっており、それらを適切に選択して活用するリテラシーも求められる。

そんな状態の親御さん相手に「どんな子に育って欲しいか」なんて開かれた質問、安易にできるわけがない。おそらく聞いたら聞いたでなんとか考えて答えてくれるだろうが、ますます不安を煽ってしまってそれでおしまいになる恐れがある。

話が逸れたまま戻ってこなくなりそうなのでここらへんで軌道修正。

僕が「どんな子にはならないで欲しい?」と質問すると、そのお母さんは待ってましたと言わんばかりの勢いで、僕が質問を言い切るのを待たずに一言、

自分のやりたいことがない子にはなって欲しくない

と。

そのまま流れるように、この言葉に込めた思いを丁寧に教えてくれた。端的にまとめると、

自分のやりたいことがないのに、社会のルールやマナーのようなものばかりを守って生きていても人生面白くない。極論、人を叩いたりしたとしても、自分のやりたいことがはっきりしていてそれを貫くことができるなら、そのほうがよっぽど勝ちだなと思う。しかも、実際はやりたいことがあればそれをやり抜くために必要なルールやマナーぐらいは最低限守るし、そのほうが守る意義も明確になる。

という感じだった。もうまったく本当にその通りだ、と首がもげそうになるほど頷きながら聞いていた。

以前、僕は研究のことについて書いた(過去記事:研究について考えてみた。)が、そこでいうところの「動物的情熱」はまさしくこれにあたる。

今の学生と話をしていて感じることの多い《空っぽなロボット感》は、「自分のやりたいこと」の無さと紐付いているのだろう。おかしい、今の世代は僕らよりももっと《自分らしく生きようぜ》という価値観を推奨されてきたはずなのに、むしろ「あれやるな」「これするな」を押し付けられ続けた僕らの親の世代よりも「自分のやりたいこと」が見つからないままで生きている。

「いい子なんだけど、面白くないんだ」

いつか、知り合いが今の学生を悲観してそんなことを言っていた。そのとき僕はそれにも共感した気がする。情熱なきモラリストが増え続けたら、それは進歩や発展と言えるのだろうか。その世界はきっと、とても安全でとてもつまらないだろう。