前回の記事はこちらから… 生き急いでいるのかもしれない話(2)
僕が「生き急いでいる」かどうかなんてもはやどうでもよくなってくるぐらい、ぐだぐだと言い訳を続けている。それでも最後に言っておきたいのが《出来ることを可能な限り増やして死にたい》という考え方について。
僕は毎日《出来ることを可能な限り増やして死にたい》と思って生きている。
特に深い意味はなく、文字通り少しでも多くのことを出来るようになって死にたい。
足し算しかできないより,引き算も掛け算もわり算もできた方がいい。
親に連れられてじゃないとレストランに行けないより,自分で「野菜マシマシ背脂オオメ!」と単騎突入できた方がいい。
水泳だって1つの種目をとことん極めるか,少しでも多くの泳法で泳げるようになりたい。
極める路線が広げる路線と同じ文脈に該当するのは,例えば25mを20秒で泳げるのと19秒で泳げるのは僕の中では違う「出来る」になるからである。
だから,僕から見ればこの考え方を仕事に持ち込んで考えているだけである。
新人として入社して,一定の業務を与えられて、その業務がある程度できるようになったら,そこから先はタテに極めるか,ヨコに広げるかをし続ける。
僕の中ではある意味タテもヨコも同等の価値を持っていて(もしかしたらこの認識に差異が生じるのか?),だから変に「下積み」に拘ったりすることもない(「下積み」と「幅広がり(強引な言い回し)」がどちらも向上心に紐付いている)。
及第点をもらえた段階でとっととヨコ展開する,それでいい。
もちろん,拘りたいものもある程度あって,そういったものについてはヨコ展開しないでずっとタテに極めようとする。
でも,そもそもそういったものに出会うこと自体が少ない。
ほんの少しのタテ展開と膨大なヨコ展開によって,僕は成り立っている。
ここに時間的な焦燥感が付随すると,おそらく周囲から見て「生き急いでいる」ように見えるのだと思う。
そして,その意味で僕は確かに「生き急いでいる」,その点については異論はない。
何故なら,人間いつ死ぬか分からないのだから,《出来ることを可能な限り増やして》死ぬためには,立ち止まっている暇はないからである。
こういう話をすると,たまに「あなたも意外と等身大で人間なのね」と言われることがある。
はい,僕は人間です。
死を恐れているし,まだまだ死にたくない。
でも,死は必ず,そして不意に訪れる。
だから僕は,少しでも早く《出来ることを可能な限り増やして》おきたいのだ。
余談だけれども、この話をセン(Amartya Sen)のcapabilityの話と紐付けて熱く語ったところ、心配されたことがあった。曰く、「それじゃあ衰退が始まる前の絶頂期に死にたいと言っているようにも感じるけれど、そういうことなのか」と。なるほどcapabilityと紐付けるとそういう解釈の可能性があるのか。おそらく利用関数が右肩上がりではなく年齢に応じて下降することもあり得るからだろう。このありがたい心配に対しての僕の答えは、「大丈夫です、死にません」。
強引にまとめて、そろそろこのグズグズの話を終わろうと思う。
結局のところ、僕は確かにある意味で「生き急いでいる」のかもしれない。
でも、ここまでの話を踏まえて改めてこの言葉を受け取ってみると、存外馬鹿にされているように感じなくなった。
「止まったら死ぬ」、いつかのトークイベントの後で登壇者の一言コメントを求められてこの言葉をボードに書いたことを思い出した。
何も考えずに殆どその場の自分の直感だけで絞り出したこの言葉が、僕をまっすぐ直観していたようだ。