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積み上げ式能力の脅威

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「発達」との過度な結びつきによって、〈力量は積み上がるものだ〉と思って苦しむ人がいる。 僕はそういう人に沢山出会ってきたし、僕自身もそうやって自分を苦しめるときがある。

彼女も苦しんでいた。

「成長してるって、そう言ってくれませんか、本当に、それだけでいいんです。それが私には分からないんです」

僕に向けられたSOS、おそらく彼女は一刻を争う危機的状態に陥っている。自分の子供が「成長している」のかどうか分からず、それが焦燥感や無力感と紐付いている。目は虚ろで、かろうじて僕を捉えているような、そうでないような、とにかく人間が自然と発する生命力のようなものは全く感じられない。それでも僕は、自分らしくいつもの調子で彼女に声をかける。

「言うだけなら簡単です、あなたのお子さんは確実に成長しています。理由だって根拠だって言えます、鉛筆で描ける図形の数だって増えているし、作業中に僕が話しかけても相槌を打ったり質問に答えることができるようになりました。でも、僕はそれよりも気になることがあります。お母様にとって成長とは何でしょうか、何のための成長なのでしょうか」

一瞬、彼女の表情が曇る。不意を突かれて動揺しているのがこちらに伝わってくる。少しの間沈黙が流れる。プラスチックのブロック玩具が合わせられてギシギシと音を立てている。

「それは…学校に入っても不自由なく過ごせるようにとか、友達と仲良く遊べるようにとか、それができるようになるのが成長だと思います」

先よりも僕を捉えられるようになった彼女の目からは、正しいかどうかを確認したいという意欲が伝わってくる。僕はその気持ちを了解したうえで、特にそれには応えずに続ける。

「どうして学校で不自由なく過ごしたり、友達と仲良く遊べると良いのでしょうか」

彼女を離すまいと僕も彼女の瞳を真っ直ぐに射抜く。メドゥーサは確か女性であった気がするが、僕の視線を真っ直ぐに受けて彼女は目を逸らさずに固まった。ブロック玩具はもう箱の中にしまわれていた。

「どうして。どうしてと言われると、それはもちろんその方が幸せだと思うからです」

「それは、お子さんが」

「はい、もちろん私も」

「分かりました、それは僕も本当にそう思います。僕もお母様とお子さんに幸せになって欲しいと思って仕事をしています。それでは、ここまで確認できたので、少し質問を前に戻します。成長についてですが、成長したかどうかはどうやって分かることができるのでしょうか」

ここまできて、石化していた彼女の表情に血の気が戻ってきた。ほのかに頬が赤らんでもいた、理由はわからない。いつのまにか僕の膝の上に座ったていた王子様は僕の腕を操ってぬいぐるみを何度も殴りつけていた。

「それは、先生がいつも私に言ってくれることたちです。今日のだったら、鉛筆で丸とか三角とか四角とかも描けるようになってきたとか、そういうやつです」

少しずつ僕の懐に彼女が入ってきているような感覚がした。それが錯覚だったとしても、確実に当初より生命力が感じられるようになってきた。でも、だから僕はもう一度突き放す。

「僕、最近、芋焼酎飲めるようになったんです。今までは麦は飲めたんですが、芋は駄目でした。これは成長ですか」

「いや、どうでしょう、分からないです」

「でも、丸を描けるようになったり三角を描けるようになったりするのと同じで、芋焼酎が飲めるようになったんです。これは成長ではないですか」

「どうなんでしょうね」

彼女の顔が王子様の方へ向いた。無理もない、芋焼酎の話は今はいらない、そう思えるだろう。構わず僕は続ける。

「質問を変えてみます。鉛筆で丸を描けるようになったり三角を描けるようになったことで、お子さんはどう幸せになるのでしょうか。ちなみに僕は芋焼酎を飲めるようになったことで、飲み会の席での選択肢が広がったり、焼酎が好きな人との飲み会が盛り上がるようになり、人生が楽しくなりました」

そうですね、と言ったきり彼女はそのまま黙り込んだ。反抗しているというよりか、本気で回答を探している様子だった。また今度にしましょう、これはこれからずっと大切になる話です、そう伝えてその日は終わりにした。

数日後、彼女はデスクワークに没頭する僕に声をかけ,自分から前回の続きを切り出した。

「考えてみたし、調べてみました。そしたら、定型発達という言葉が出てきて、それを基準にしてそれ通りかそれ以上になることが幸せに繋がるのかなと思いました」

まさか調べてくるとは思っていなかったので,僕は瞬間,怯んだ。でも,直後にむしろ都合の良い状況に進んでいることに気づいて,ゆっくりと話を始めた。

「ありがとうございます,定型発達,僕らもよく使う言葉です。では,定型とはどのようなものを指すのか,何か助けになることは書いてありましたか」

僕があまりにもしなやかにゆったりと切り返したものだから,僕の言葉は無防備な彼女にぶつりと突き刺さった。

「定型がなにか,確かなにか書いてあった気がしますが,ちょっとそこまでは。調べてみます」

「いえ,いいんです調べなくて。どうせ調べても仕方のないことですから」

「調べても仕方がない,どういうことですか」

火に油を注ぐように,僕は彼女に笑顔を見せた。

「定型発達というときの定型には,確かに一定のこれ,というものがあります。でも,それで定型がなにか分かるのと,あなたのお子さんが幸せになるのとは,ぴたりとは重ならないのです」

「言っている意味がいまいちわかりません」

「つまり,結局のところ,定型発達かどうかというのも一つの指標に過ぎず,一番大事なのは,いま,お子さんに何が必要で,何ができるようになるべきかということなのです」

「それは,定型発達を参考にしたら分かることじゃないんですか」

「分かりますし,分かりません」

どういうこと,口元が確かにそう動いていたが,僕に聞かせるために発したというよりは,自分のいまの感情を整理しているようで,ほとんど聞こえなかった。

「殴り書きだった筆記具の使用が,直線を描けるようになり,十字を描けるようになり,丸を描けるようになる。そしたら次は何ができるようになるのか,なるべきなのかは発達の観点を参考にすれば分かります。でも,それがどうしてできるようになるべきなのか,できるようになったらお子さんの生活がどのように豊かになったり幸せになるのかについては,僕たちが考えなくてはならないのです」

「……」

「だから,発達の段階として提示されている能力を網羅的に獲得しようとする考え方は,道具として使うのは魅力的なときもあるけれど,目的にしてしまってはとても窮屈なのです」

「そうなんですか」

「僕はそう思います,あくまで僕は,ということにはなりますが」

「まだ良くわかりませんが,もう少し時間をかけて理解してみたいので,また同じような話をしてください」

途中からお互い話に夢中になっていて,王子様が部屋から出てきたことに二人とも気づかなかった。先生と一緒に作った剣を振り回して,彼は楽しそうに歩き回っていた。



何のために発達段階,能力,技術といったものは明確なリストになるのか。この問いを考えるために僕たちはそれぞれもっと多くの時間を費やした方が良いだろう。

リスト化がある目的のもとに,便宜上おこなわれている程度のことだと割り切れるかどうかで,そのリストは目にした人を幸せにも不幸せにもすることができるだろう。