自分の子供のことが分からないんです。
罪を告白するかの如く,俯き加減で僕にこの言葉を手渡してくる保護者がたまにいる。
そういった保護者に対して僕が返す言葉は「分からないんですね,いいんじゃないですか」と決めている。
そうするとほとんどの場合,怪訝な表情で「え?」とか「そうですか?」などと聞き返される。
だから僕はもう一度「はい,いいんじゃないかと思っています」と答える。
僕の思考の道筋は以下の通り。
「子供のことが分からない」ということを罪の告白のように話す人は,きっと自分の子供のことは分かるべきだと考えている。
だから,「子供のことが分かる人」は善で,「子供のことが分からない人」は悪なのである。
では,どうして自分とは全く別の生き物である子供のことを分かっている状態が想定できるのか。
僕はいま,隣のデスクで仕事をしている知人のことをほとんどよく分からない。
それと「子供(=我が子)」との違いは何なのだろうか。
おそらく,ここで「保護者」という役割語が猛威をふるっているのだろう。
自分と長い時間を共有し,殆どすべての生活場面を共有しているのが保護者にとっての「子供」である。
まして,たいていは「血縁」という言葉でつながっている(僕からしたら「血縁」はただの二字熟語でしかない)。
姓が同じであったり,顔が似ていたり,性格が似ていたりして,まるで自分と密接に繋がっている存在のように思えるのが「子供」である。
でも,いま僕の隣でくしゃみをした知人と僕との関係と同じように,「保護者」と「子供」は別々の人間である。
だから,僕が隣の人のことをよく分からないのであれば,それと同じように「保護者」も「子供」のことがよく分からないはずである。
もちろん,分かりたいと思うことは悪いことではないとも思う。
それに,実際に「あ,いまこの子が何考えているか分かった」と思える経験も一定程度あるだろう。
でも,仮にそういった経験があったとしても,それがあくまで<「分かった」と思いこんでいるだけである>という可能性を否定しきれない。
だから,厳密に言えば,「子供のことが分かる人」など存在するはずもなく,存在できるのは「子供のことが分からない人」か「子供のことが分かっていると自認している人」である。
仮に,「そんなの言われなくたって分かっている。そもそもこの世に絶対的な客観性なんて存在するはずないのだから,せいぜい「子供のことが分かっていると自認している人」が「子供のことが分かる人」としては限界値なんだ」と言う人がいたとする。
実際このような文句は一定聞こえてきそうである。
しかし,この文句によって「子供のことが分かっていると自認している人」が「子供のことが分かる人」とある程度同じことを指しているという認識になったら,もはや「分かる」か「分からない」かはいずれも自認であることになる。
そもそも,「子供のことが分からない」ということ自体,客観的に説明し尽くすことは不可能なのである。
だから,結局僕が言えるのは「分からないんですね,いいんじゃないですか」しかない。
そして僕ができるのは,「分かることと分からないことはさして変わらないことですよ」と伝えることぐらいである。
「子供のことが分からなくてもいい」,僕は心の底からそう思う。
そして,それと全くおなじモチベーションで「分かりたいと思ってもいい」とも思う。
なんなら,「分かった気になってもいい」とも思う。
でも,絶対に間違えないでもらいたいのは,この三つが全て同じタイミングで生じるということである。
自分の作った料理を目の前にして,我が子が人参ばかり除けて食べていたとする。
それを見て「頑張って食べなさい」と言って強引に食べさせたとする。
それで結局我が子が泣いたとする。
そのときに,「なんで食べたくないのか分からない」と心を悩ませるのも,「理由が知りたいから喋ってよ」とむしゃくしゃするのも,「嫌いだから食べないんだな」と納得するのも,全部同じタイミングで生じさせることのできる解釈である。
だから,どうか落ち着いて,意図を持って自分の解釈を制御してもらえたらと思っている。
いまの自分は心に余裕があるから,「分からない」と思うことによって子供の様子を具に見取ろう。
いまの自分は思考がよく働くから,「分かりたい」と思うことによって子供の考えていることを推測してみよう。
いまの自分は心に余裕がないから,「分かる」と思うことによってひとまずこの場を穏やかに乗り切ろう。
いまの自分は思考がよく働くから,「分かりたい」と思うことによって子供の考えていることを推測してみよう。
いまの自分は心に余裕がないから,「分かる」と思うことによってひとまずこの場を穏やかに乗り切ろう。
それが「保護者」と「子供」の日々の生活を脅かさない限りは,何でも良いのだと,本当にそう思う。
そして僕がこれまで見てきたさまざまな家族のありかたを見ると,子供のことを分かるか分からないかは存外それに影響しない。
むしろ,影響するものだと解釈上結びつけることで,本当にそのようになっているケースがほとんどである。
自分の子供のことが分からなくてもいい話,じっくりと当たり前のことを長々説明して終わる話だった。