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子供が意図を汲み取ったら終わりですか?

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先日、僕の支援提供の場面でこんなことがありました。



僕 「これなーに?」
Aくん 「りんご!」
僕 「そうだねぇ」
(と言いながらAくんの脇腹ををくすぐる、Aくん大爆笑)
僕 「じゃあみかんとりんごは何が違うの?」
Aくん 「ん〜、りんごは赤くてみかんはオレンジ色。どっちも丸いけどりんごのほうが大きい、おもい」
(Aくんはそう言いながら身をこわばらせる)
僕 「そうだねぇ!よく分かったね!」
(と言ってAくんに向かってハイタッチのポーズを見せる)
Aくん 「え?あ、えへへへへ!」
(2人でハイタッチして大笑いして次の課題に進む…)

子供が適切な行動をとったら間髪入れずに子供にとって好ましい〈何か〉を提供し、次にまた同じ適切な行動を取れるように促していく、こうやって日々を過ごしています。

さて、さきにあげた場面において、Aくんにとって好ましい〈何か〉とはなんだったでしょうか。僕が提供したのは「そうだねぇ」の声かけとくすぐりとハイタッチと「よく分かったね!」の賞賛です。そして、声かけだけで終わらないように、必ずくすぐりかハイタッチをセットで提供しています。どれも〈されて不快〉ということはなさそうでした。避けたり顔が曇ったり大声を出したりすることはありませんでした。では、程度問題としてはどれが一番好ましかったのでしょうか。

僕は〈おそらくくすぐりだろう〉と考えます。根拠としては、まず私にくすぐられたときに大爆笑をしていたこと。これだけでは好ましくて笑っているのか不快だけどついつい笑ってしまっているのか、はたまたそれ以外なのかは分かりません。ただ〈良さそうな反応を示してくれている〉ことを認識することは第一段階として重要です。そしてその次に、同じ〈問題に正解した〉というシチュエーションにおいて「身をこわばらせる」という反応を示したことも根拠の一部です。直前の一連の流れについて明確に記憶をしているからこそ、反射的に身体が動いていると考えられ、このことから快か不快かは別としても強く印象に残っていることが分かります。最後に、「え?あ、」という反応です。これをもって僕は確信しました。Aくんのなかで生じていた期待値と現実との間にギャップがあることのあらわれ、それゆえの動揺だと受け取りました。つまり、2回目の正答に対して私が提供したハイタッチは、Aくんからすればくすぐりよりは好ましくないことだったのだ、と僕は考えたのです。

ここまでの話を前提としたときに(長いわ!)、僕はこの一連の流れに実に興味深い事象を発見しました。それは、最後のAくんの〈無理のある笑い〉です。この笑いが何なのか、この笑いが何を生じさせようとしたのか、それを考えることによって今までとは違う教育のあり方を考えることができると思いました。

結論からいうと、Aくんは僕が提供したハイタッチを自分にとって好ましい〈何か〉にするために強引に笑ったのではないか、と僕は考えることにしました。つまり、支援者である僕から提供されるべき報酬としての好ましい〈何か〉を、自ら得るために歩み寄る行為の表れが、この〈無理のある笑い〉だということです。

この考え方を支持すると、Aくんは僕の意図を適切に汲み取っているということになります。僕がおこなったハイタッチを「好ましい〈何か〉の提供のつもり」として認識し、自分の気持ちを調整して「好ましい〈何か〉の提供」に仕立て上げてくれたのです。被支援者然として僕の支援が手元に届くまで待っているのではなく、僕の支援が自分の思っていたところまで届かないと分かると自分で取りにいく、そのためにまず僕の支援者としての意図を適切に汲み取ることができている、ということです。

このような指摘をすると、もしかしたら「支援者として、相手に意図を読まれているのは如何なものか」というご意見を頂戴するかもしれません。僕も教員養成課程の学生だった頃、大村はまの『教えるということ』(共文社, 1973年)を課題図書で読んで、「仏様の指」のエピソードに感銘を受けました。相手に意図を読まれず、こちら側が相手に何を為したかを悟られず、まるで相手が自力で課題を克服したかのように感じるように支援する、それこそ「教師」であると、本当にそうだなと思いました。思っていました。

でも、今の僕はこのエピソードに対して心の底からその通りだと思い切ることができません。揚げ足を取るような言い方ですが、僕は「仏様」ではないからです。僕は「仏様」ではないので、常に正しい状態で被支援者の前にいることができません。だから、たとえ相手に悟られなかったとしても、先導者としての役割を完璧に担うというこの立場に自分の身を置けません。悟られるか悟られないかを論点に置いている話ではあると思いますが、僕はそれよりも被支援者が悟る余地の無い状態で事態が進むことへの恐怖心がわいてしまって仕方ありません。その支援が本当に正しいのか、それを支援を受けている相手とも確認しながら支援を進めていきたいのです。 また、僕は「仏様」ほど能力が高くありません。だから、出来ないことも知らないことも沢山あります。毎日手を止めず学び続けていますが、それでも今現在(もしくは未来永劫)僕に出来ないこと知らないことは沢山あります。その僕が、僕の能力を超えようとしている被支援者を目の前にしたとき、「仏様」のように立ち振る舞えるとは思えません。でも、だからといって僕の能力を超えようとする被支援者を足止めしたいとも思いません。むしろ、僕を超えてくれる人に少しでも多く出会いたい、その人たちを改めて超えて、そして超えられて、そういったことを繰り返していきたいのです。

だから、僕は意図を汲み取られることがそれほど問題なことだとは思いません。厳密に言うと汲み取られること自体には問題が無いと思っています。もちろん、汲み取られずに被支援者の成長を促せたらいいなとも思いますが、そうできずに萎縮して自分の本来のパフォーマンスを発揮できないことのほうが問題だと思います。仮に汲み取られたとしても、誠意を持ってその場の互恵的な関係の構築にこだわることができれば良いと思います。そして、互恵的に相互交流的にその場が展開される方が質も効率も高いのではないだろうか、とさえ思います。僕は〈僕の指〉で支援できればそれでいいです。

学びは何のためにあるのでしょうか、教えるという行為は何のためにするのでしょうか、支援とは何を目指しておこなわれるのでしょうか。もしそれが、ある主体を成長した存在として未来に向かわせるためだとしたら、その成長を主体が自ら作り出せることにこそ価値があると思います。だから僕は、支援者が意図を汲み取られないように振る舞うことで被支援者を主体から客体に引きずり下ろしてしまうことを、恐れているのです。