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《子供》を期待される子供

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子供が子供であることがどのように成立しているのか、ということについて考えたい。

子供とは何だろうか。特定の条件を満たした生物に付けられた名称、大人ではない状態、未熟であることの言い換え。様々な表現で一応の説明はできそうである。僕は自分のことを大人だと思っているが、頻繁に周囲から「子供だよね」と言われる。子供とは何だろうか。

仕事で「子供」と関わっている。この「子供」は0から6歳までの人間のことを指した言葉である。僕も〈子供〉だと言われるが、同じ子供でも「子供」と〈子供〉は対象にしている性質や事象が異なる。〈子供〉が仕事で「子供」と関わっている。

もしこの「子供」が、自分は大人だとか、大人でも子供でもどっちでもなんでもないと主張した場合、どのように制したら「子供」に押し込められるのだろうか。押し込める、ひどく横暴なことを問うている。しかし、意識的か無意識的かは別にしても、意外と多くの人間がこの問いを携帯して生きているのだ。そして、大抵の場合、非常に簡単で経済的な方法をもってこの問いに対応している。その方法は、お前は「子供」だと否応無く突きつけ、そのあとで反論する方法も意思も能力も剥奪するという方法である。周囲の人間がその気になれば(僕の規定した0〜6歳の「子供」であれば余計に)難しいことではない。

子供はなぜ子供である必要があるのだろうか。親に生命を守ってもらうため、などといった回答は真っ当に成立する。しかし、それだけではない。僕たちは、子供が子供であることが、周囲にとっても都合が良いという場合を考えなくてはならない。子供が子供らしくいないといけない状況を、周囲が作り上げている場合があることをきちんと認識しなければならない。僕らが子供に、子供であることを期待しているのである。

殊に教育という文化では、伝統的に、子供に子供を期待してきた。発達に関する諸理論と蜜月の仲を続けてきた教育は、発達理論を基軸に、それを補完するべく発展していった。その結果、良くも悪くも被教育者は、都度、発達段階との比較検討にさらされ、〈その時々の段階らしさ〉で評価されるようになった。5歳児らしさ、小学3年生らしさ、中学1年生らしさ…らしさが要件を満たしていることを期待されるのである。

無意識に教育者や養育者は子供に子供を期待する。しかし、本当のところ、子供というのは明確に定義できない。それぞれにエゴを寄せ集めて〈エゴ太郎〉を作り上げ、そこに子供を当てはめようとしているだけである。それが悪いと言いいたいわけではないが、無意識のうちに行われているところを見ると閉塞感に息ができなくなる。自分たちの〈エゴ太郎〉を見せ合って論評し、その行為に陶酔して賛辞を投げ交わす。これが無意識に行われるのは、悲しいことに、一見すると他の人に比べて子供のことを理解しているような言動を示す人の場合が多い。アイゼルネ・ユングフラウ…ますます堅固になった虚像にはめ込まれようとしている子供たちを見るたび、伝説であって欲しいあの残酷な拷問具を想起する。