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言葉を丁寧に扱うこと(前篇)

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言葉を丁寧に扱うこと。言語学、国語学を傍らに置いて生きてきて良かったと思えるのは、言葉の扱いについて周囲から賞賛されたときである。言葉を学問として深く究めていこうと思ったときに、ひどく不向きであることに何度も頭を悩ませた。自分でそう思うことがあれば、他人からそう指摘されることもあった。もちろん、誰も意地悪してやろうと思って僕にそうしているわけではない、ということも分かっていた。純粋に不向きだと、ただそれだけの事実だ。意固地になっていると、そう思われては仕方がないので、まずはじめに学問を深く究めるのに不向きなこの僕について少し紹介しておきたい。そのあとで、言葉を丁寧に扱うことについて、最近の僕の経験を振り返る。

何が不向きかと言い出すときりがない。まず、注意の転導が二極にふれている。ころころと音が聞こえそうなくらい転導するときと、すとんと穴に落ちてしまったかのように全く転導しなくなるときがある。そして、基本的には激しく転導している。そのため、長い文章を読み進めていくことができず、大抵の場合、読んでいる途中で他の思考が沸き起こってしまい、その考えが魅力的に思えると今度はその思考にはまり込んでしまって出てこれなくなる。こんなことを繰り返しているから、2〜3割読んだ文章が部屋に溢れている。もちろん、僅かばかり読み切れた文章もあるが。

加えて注意の持続の不安定さと選択の難しさとが究めにくさを助長している。転導の話とも関連するが、基本的に僕の注意は長くは持続しない。もって5分から10分程度。しかし、転導のスイッチが切れたときには自分の空腹にも気づかずに6時間近く没頭する。ごくまれなことだが。そしてこの不安定な持続に追い討ちをかけるのが注意の選択の難しさ。視覚の刺激にも聴覚の刺激にも選択の難しさがあり、特に聴覚の刺激については選択のせの字すら見当たらない。基本的に無音の部屋で過ごすか、音楽等で外界の雑音を遮断する。しかし、その音楽ですら初めましてではむしろ脅威となり、遮音の機能を果たすには何百回と同じものを聴き、背景化させる必要がある。

ここまで揃うと、自分を継続的に学問に向かわせることが非常に難しくなってくる。瞬発的なパフォーマンスはある程度期待でき、ぶつ切れのブロックの組み合わせで連続体を装うことも可能ではあるが、切れ目なくのびていく帯のような成果が出しにくい。自分に不向きだと考えるようになったのは、ここまで自己理解が進んでからのこと。同時に、できることを探すようにもなった。

学問を深く究めることに一区切りをつけ、飛び込んだのが企業。福祉と教育、内容に共通項を見いだし、知見の創出からサービスの提供へと舵を切った。しかし、ここで、言葉について究めようと思ったこれまでの経験が思いもよらぬ昇華を遂げる。

後篇へ続く…