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言葉を丁寧に扱うこと(後篇)

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僕が最初に任されたのは、実店舗での福祉サービスの提供。個性豊かな子供達に療育の提供、その保護者に相談支援の提供をおこなう。毎日未就学の子供相手に療育プログラムを提供し、保護者に成果と課題をフィードバックする。

このサイクルを日々過ごしていくなかで気づいたことがある。それは、思っている以上に人間は言葉の表面的な意味に惑わされているということだ。特にこのことに気づかされたのは、保護者とのコミュニケーションにおいてが多い。言葉を発しなかった子供が言葉を発するようになると、その発達途上の言葉を聞いて保護者は拡大解釈する。悪意がある訳ではなく、これまで言葉以外のあらゆる情報から自分なりの仮説を編んで接していたため、いざ言葉が発せられると、まるでそれが一対一で本心と対応しているように感じてしまうのである。トイレに行ったばかりの子供が親との挨拶を済ませて部屋に入室し、目の前に自分の苦手な書字のプリントが置かれていることが分かったとき、この子が発する「先生、トイレ」はどんな意味を持っているのだろうか。果たして字義通りに「トイレに行きたい」と解釈してよいのだろうか(もちろん、その場はひとまずトイレに連れて行く。さもなくば明確に虐待行為にあたる)。こうやって冷静に文字で読むと複数の解釈可能性を想定できるが、なかなかそれがその場では難しい。対応の忙しさや子供の言動の予測不可能性。ついつい、手に取ることが容易い言葉を字義通りに受け取ってしまうのである。良くも悪くも言葉の力を過信してしまうのだ。

こうした保護者と子のやり取りを見ていると、言葉の、道具としての貌がはっきりと現れる。1つの言葉を目の前にして、互いに込めた思いや汲み取った願いが違うから、簡単に衝突が生じる。しかし、互いにはっきりと見えていて、相手に見えているということも分かっているのが言葉ぐらいしか無い状況では、その衝突の構図から抜け出すことが難しい。そして、こうなると仲裁に入るのはなかなか高度な技術を要する、らしい。らしいと言いたくなるのは、僕にはそれがさほど難しいことに思えないからであり、ここに言葉を究めようとした過去の経験が生かされている。言葉が生成する意味は動的で刹那的である。同じ記号を扱っていても、込められた意味、持たされた意味には人の数だけ違いがある。意味は絶えず変化する。語られた言葉の意味はその場限りで、たとえ同じ人から再度語られたとしても、同じ意味であるとは限らない。言葉を究めていれば当たり前に思えるこの感覚は、実はなかなか貴重な感覚らしいのだ。

しばらくして僕は、店舗の長を任された。子供や保護者へ直接支援する機会は減った。そのかわり、直接支援を提供するチームのスタッフたちを支援する機会が増えた。

利用者とのやり取りとはまた異なる難しさがそこにあった。同じ側だからと思ってかける言葉を梳いてしまうと、思いもよらぬ摩擦が生じる。だからといって不用意に言葉を盛ってしまえば、相手を圧倒してしまう。

また、スタッフから与えられる話題や語彙も変化していた。取り留めの無い話よりは報告連絡相談が多く、緊急性も重要性も高い話ばかりになった。選ばれる言葉も、攻撃的な印象を受けるものが多い。0か100か、極端な選択を迫られている気がして、スタッフを目の前に何度も眩暈を起こした。僕を攻撃したいのではなく、上長に向き合うことがそれだけ身体の強張ることであり、故に僕に対して攻撃的に接するしかないのだと頭では分かっていた。しかし、それで気持ちが穏やかに保てるほど、僕は器用ではない。

恋愛や趣味の話を笑いながらしていた頃が懐かしく、今ではこちらが前と同じ気持ちで話題を振っても、何か意図があるように聞こえてしまうらしい。話題が同じでも、肩書きが変わると受け取る側の意味は全く違うものになる、らしい。

それでも言葉によるコミュニケーションを避けずに続けた。言葉がこれだけ状況依存的に変化するものであるということが、脅威である反面、良くもあった。自己と他者が対峙するとき、両者のあいだに緩衝材や潤滑油がなければ衝突や摩擦は避けられない。宮大工は建材と建材の間に器用に「あそび」を設けて揺れなどに備えるが、二者間でのコミュニケーションでは動的な言葉がその「あそび」の機能を果たしている。だから、言葉を丁寧に扱い、また相手の扱い方にじっくりと目を向けることで、互いの主義主張を損なうことなく共存することができる。そのことを言葉を究めようとした生活のなかで体得していた。

言葉を究めようとすることで、言葉の強さも弱さも知ることができた。僕が行くことのできないはるか遠くの地まで、僕の思いや願いを届けることができる。僕が毎日大切に過ごしている身近な人であっても、僕の思いや願いを届けられないこともある。そうした様々な結果を目の前にしても興奮しすぎたり落ち込みすぎたりせず冷静でいられるのは、究めようとした過程で出会った様々な「大文字の理論」たちが僕を見守ってくれたからである。学士の4年、修士の2年、研究の道を進まれている諸先輩方には到底及ばず、未熟な研究生活であったが、言葉を丁寧に扱うことを続けられるのは、未熟ながらに真剣に言葉に向き合ったからだと思っている。引き続き、等身大の速度で研究と実践を進めていきたい。