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続・「つくし世代」が難しいという話

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前回の記事はこちらから… 「つくし世代」が難しいという話

2018年度も残り1ヶ月弱、自分やスタッフの下半期の評価をする時期である。各々の取り組みを丁寧に振り返り、1人称での成果の実感と3人称での成果の見え方とのすり合わせをしていく。個人の成長をテーマに着実にステップアップした人がいれば、チーム全体の生産性の向上を目標に尽力した人もいる。そうした多種多様な成果をコンパイルして、最終的には1つの評価軸に対応させていくことになる。日々の関わりとは違った側面、評価者と被評価者という役割語で僕とスタッフが関わる瞬間である。全員の活躍を他者にアピールする良い機会であるから、この時期の僕は心地よい緊張感に包まれている。

スタッフとの対話を進めていくなかで、そういえば以前、僕が「つくし世代」について言及したことを思い出した。遠過ぎず近過ぎない距離感を保って、全力で敵対心の無いことを伝え続ける必要がある人たち。その人たちとの関わりを模索していると、そこまでの報告で終わっていた。だから今、あれからどうなったのかを改めて振り返ってみる必要がある、と思う。

「つくし世代」との関係構築はかなり難航した。困難や試練に直面した際に、僕がそこへ歩み寄ろうとするとどうしても距離感が揺らぐ。他の人に寄るよりも、一歩あたりの近づく距離が長いように感じる(感覚的に言うなら、ググッと近づく感じである)。だから、普段通りの感覚でいると近づき過ぎてしまうのである。独特の引力さえ感じる。或いは、こちらが近づくのに合わせて(又は恒常的に)あちら側からも接近しているのかもしれない。逆に、距離をとり直そうとして離れようとすると、それはそれで離れ過ぎてしまう。少し引いて冷静に考えようと思っただけでも、それが物凄く冷酷な行為に見えるようで、寂しい目で僕を見る。だから、近過ぎず遠過ぎずの距離を保つだけで相当の努力が必要であった。もしかしたら、僕の心の動きを機微に感じ取り、プラスにプラス、マイナスにマイナスで反応を返しているのかもしれない。だから効果が自分の想定の倍で現れる。そう思うようになってからは距離の調整がいくらか簡単になった。「つくし世代」は僕が思っていたよりもずっと繊細であった。

強みは文字通り他者への「尽くし」であった。何か仕事を依頼するときは、それが誰にどのように届くのかまで伝えると生き生きと引き受けてくれた。成果を評価するときも、起こったことをそのまま伝えるより、そのことによる他者への影響、他者からのフィードバックを伝えたほうがよく受け止めてくれた。時折、他者ばかりに気をつかって嫌気がささないのかと心配になるが、そんな僕の気持ちをよそに「尽くし」を繰り返していくなかでみるみる成長していった。

適所にはまり込めば、チームで重要な役割を担ってくれることがこの半期でよく分かった。これは僕にとっても大きな成果となった。「つくし世代」に何か不安や不満を感じるとき、たいていそれは本人たちにとって問題になっていなく、「僕だったら」を過剰に押し付けていることが原因なだけであった。その意味で僕自身のスタッフとの向き合い方の良きメンターの役割を果たしてくれた。利他的な行動を純粋なる利己の精神で運用できる世代、もしかすると現代の社会課題に立ち向かうには彼らの等身大の出で立ちが参考になるかもしれない…というのはやや暴論か。