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《子供》を盾にする子供

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以前、僕は「《子供》を期待される子供」という文章を書いた。子供がそのままそれだけで子供として成立しているのではなく、周囲の他者が子供を子供として認定することで成立しているのだということを書いた。中世の社会には子供はいなかったという主張がある研究者によってなされたが、子供という語が後付けで特定の区切りに対応して付けられたものであるからこのような主張が成立するわけである。子供は子供だと言われて子供になる。そして、そうやって周囲が子供を生み出すことに都合の良さを感じる状況がある。例えば現代の多くの学校教育は、特定の年齢の人間に対して子供であることを期待することで、教育者と被教育者の非対称性を確立させたり、思想や行動を制限したりする(最近は勇気ある教育者によるラダイト運動も見られるようになったが、それも中途半端な流行への便乗であれば逆効果だったりする)。子供は様々な都合で子供であることを期待されるのだ。

この話には反対側からの視点が存在する。つまり、子供が子供であることを自ら主張し、盾にする場合である。自分が子供であると進んで発信し、子供であるがゆえに許される状況、免れられる場に自分を逃すのである。子供という掩蔽壕に入り込んで、周囲から飛んでくるあらゆるものを無力化し、やり過ごす。特に、子供であることを期待されていたが大人などの異なる役割を期待され始めた者が、移行を目前にこの策をとることが多い。

なぜ子供を期待されていた者たちの一部は、このようにネバーランドから抜け出せなくなってしまうのだろうか。未就学期や小学校低学年時に親の化粧品をこっそり借りておめかししていた者たちが、中高生になって飲酒や喫煙を知った者たちが、どうして子供からそれ以外(大抵の場合は《大人》と呼ばれる)に移行する瀬戸際で、ネバーランドからの出国を踏み止まるのだろうか。

挙げた例えをもとに考えてみると、もしかすると《子供》たちは《大人》への移行を期待しているのではなく、単純に《子供》であることを拒絶しているだけなのかもしれない。《子供》であるがゆえに禁止、制限されている行為を前倒しでおこなっているに過ぎず、《大人》になるにあたって期待されるそれ以外のさまざまな義務、権利、責任等を引き受けているわけではない。《子供》の憧憬の眼差しは行為に向けられていて、《大人》に向けられているわけではない。《子供》を脱することと《大人》になることとの間には《非・子供》の空間が存在している。《子供》ではないということと、《大人》であるということは、綺麗に等号で結びつくわけではないということになる。そして、《非・子供》の空間に存在する者は、都合よく《子供》と《非・子供》を使い分ける。やりたいことがあれば《非・子供》を主張して権利を獲得し、面倒なことがあれば《子供》を盾に権利や責任を片っ端から放棄していく。そして、そもそも誰も《大人》を話題にしない。

だからといって、《子供》や《非・子供》に対して《大人》への移行を強要してはいけない。引きずり出すのではなく、自らすすんで移行するように仕向けていく必要がある。北風を吹かせて上着を剥ごうとせず、太陽で照らして自ら脱がせるのだ。そう考えると、《大人》とは果たしてどれほど移行したい先なのだろう。移行したいと思えるほど魅力ある世界であるのだろうか。ディストピアであれば誰だって足を踏み入れたくない。

「この国には何でもある。本当にいろいろなものがあります。だが、希望だけがない」約20年前に書かれた小説の中で中学生が発した言葉。彼らは自分たちの方法で、自分たちのこれからを開拓していた。それはある意味、既存の《大人》を否定し、克服するような活動であった。《子供》を盾にする子供。彼らを否定することは、《大人》を彩ることができない僕らを自傷する行為なのかもしれない。《大人》を彩り豊かなユートピアに仕上げるか、《大人》と《子供》という構図自体から抜け出すか、何かしらの手立てを講じる必要がある。