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【再掲】対話が今のところの最善策でしょうか

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この記事は、2016年11月28日に僕が代表をしていた大学サークル「codolabo」のHPに掲載したものです。 当時、身内からの反響が大きかった記事です(といっても規模はたかが知れていますが)。 いま読み返すと、この頃から社会構成主義的なパラダイムとの付き合い方を模索していたようです。
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サークル活動をしていると、様々な局面で「正しいか正しくないか」という判断を迫られることがあります。これはおそらく、社会で人間として生活している以上、避けられないことだと思います。そういう局面に接するたびに、僕はどうしても悩んでしまうのです。「正しい」ってなんなんでしょうか。


「これは正しい」という判断がおこなわれたとします。「正しさ」は力をもち、街のど真ん中を大手を振って歩きます。そして、「正しさ」の誕生は、同時に「正しくなさ」の誕生も引き起こします。双子のごとく生まれた2人。でも、「正しくなさ」は常に「正しさ」を引き立てるための存在でしかありません。正しくないことがあるから、正しいことが際立つ。「正しくなさ」が仕事の手を休めると、不思議と「正しさ」の力も弱まってしまうのです。「これは正しい」という判断は、「それは正しくない」ということを同時に判断しているのです。

「正しくなさ」は、自分と同じような境遇の双子を探し回ります。絶対に、こんな苦しい思いをしているのは自分だけでない。自分は自分なりの筋道が一本通っているのに、通せど通せど、「正しさ」の引き立て役で終わる。こんなのおかしい…そう思って探していると、「男性」と「女性」の双子に気づきます。彼らも「これは女性」「これは男性」という判断によって生まれた双子です。しかし、なんだか自分とは様子が違います。置かれている状況が違うのです。彼らを取り巻く環境は、「男性」と「女性」の判断基準に疑問を持ち、「容易に分断できるものではない」という声明を出したのです。そもそも何をもって分けるのか、何が2人を分かつのか、そういう議論が活発におこなわれているのです。

「正しくなさ」は途方に暮れます。何故、「正しさ」と「正しくなさ」の判断基準については議論がおこなわれないのか、何が「男性」「女性」と違うのか、分からないからです。何が違うのか分からないけど、何かが違うらしいという実感。実感だけがうろうろとつきまとい、答えが出ません。

鬱々としている「正しくなさ」を見たある人が、いま頭の中にあることをそのまま他人に話してみることを提案しました。「正しくなさ」は恐る恐る、自分の生まれた判断基準に疑問を持ったこと、それが「男性」「女性」の判断基準をきっかけにますます分からなくなったこと、考えても答えが出ないことを他人に話しました。すると、少しずつ人が集まり、様々な意見が飛び交い、支持者もいれば反対する者もいる集団が出来上がりました。

「正しくなさ」はあることに気づきました。「判断基準は何かを世界から切り分けるために必要なときがある。自分もそうした判断基準があったからこそ生まれた。でも、その判断基準がどんな意味を持ち、どんな状況を生むのかということは、絶対的なものではない。そして、対話することで判断基準は様々に変化する」ということです。「対話を避けていただけなんだ。対話をやめ続ける限り、自分の存在は絶対的なんだ」、そう思うようになった「正しくなさ」は、積極的に周りと意見を交わすようになりました。


僕の思考では、ここまでで限界です。今後も考えを深めていきたいと思います。

ディズニー映画の「マレフィセント」は、悪役(ヴィランズ)が持つ物語を表舞台に出したという意味でとても興味深いものでした。判断基準を問い、対話を重ねるためには、まず、役者が揃う必要があります。どんな立場の人も、対話の場に参加する必要があるのです。「正義」の品格を問うためには、「悪」の存在が欠かせません。「悪」がいるから「正義」が存在できるのです。

自分の判断について再判断するためには、自分から遠い人の意見こそ重要なのかもしれないですね。