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私、肉体、幽体①

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(今回のシリーズはスマホでの読みやすさを意識して、試しに改行多めで投稿しています)

先日、施設長有志の打ち合わせに参加しました。その打ち合わせでは、施設長が月に一度集まる会議の充実に向けた話し合いをしています。その結果を毎月の会議でアウトプットし、施設長やエリアマネージャーたちからフィードバックを貰っています。


この打ち合わせ、もともとは「何か面白い企画ができて、会議に参加している人たちの満足度が上がったらいいね」くらいの目標設定で進めていました。

だから、バラエティ番組を模したコンテンツを実施するとか、交流を目的としたランチ会を主催するとか、そういったことが話題にあがっていました。


それが途中から段々と1つの方向性を持つようになったのです。方向性を持つに至った経緯はここでは割愛しますが、施設長たちが質の高い省察を出来るようにアシストしていこう、というのがそれです。

ドナルド・ショーンが『The Reflective Practitioner』(僕が読んだのは2001年にゆみる出版から出ている抄訳です)の中で指摘している「反省的実践家」をどのように育成していくかということが中心的関心になったわけです。


「反省的実践家」の育成に方向性が絞られてから、様々な方法でそれにアプローチしました。プレゼンターが全員の前で省察のプロセスを公開したり、省察のフレームとして有名なコルトハーヘンのALACTモデルを紹介したり、役員クラスの方に公開省察してもらうこともやってみました(これは大ウケでした)。

でも、省察の習慣化を動機付けするのはなかなか難しく、浸透具合にもムラが出てきました。やる人はやるし、やらない人はいつまで経っても何を伝えてもやらない、学習環境で生じがちなムラです。


そこで、僕たちは省察を行うために必要な資質能力やマインドをリストアップしてみることにしました。そして、仮説的にあがった項目のひとつひとつに対してさらにステップを想定することにしました。

《やらない》人は《やれない》のであって、省察という概念を細切れにして少しずつ提供すればやれるようになるかもしれない、という考えが前提になっています。


そのリストのなかに「どんなことであっても第三者の視点からドライに分析できるかどうか」という項目があるのですが、この項目を細分化するにあたって、そもそも「対象となる事象に対して人間がどう接するのか」ということを考えることになりました。

例えば、スタッフがクレームを貰ったとします。そのときに「うわー!」と感情むき出しにするか、「あ、貰いましたね」と他人事のように反応するか、「クレーム貰って凄くヘコみました」と感情をあらわにしながらも冷静に対応するかで、その後のクレームとの向き合い方が変わりそうだと考えたわけです。


プロジェクトメンバーで話し合いを進めていくと、どうやらこの「対象となる事象に対して人間がどう接するのか」については、2つの《界》と3つの《程度》に分けられ、3つの《程度》については最終的に2つの《次元》に分けられるだろうという結論に至りました。

そして、それらは3つの《段階》を構成し、僕たちは事象に対してその3つの《段階》のどこかから向き合うのだろうと考えるようになりました。


次回以降では、この2つの《界》と3つの《程度》、2つの《次元》と3つの《段階》について説明していきます。