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私、肉体、幽体③

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(今回のシリーズはスマホでの読みやすさを意識して、試しに改行多めで投稿しています)
本シリーズの過去記事↓↓
私、肉体、幽体①
私、肉体、幽体②



-3つの《程度》-
僕らはいま《関心界》と《無関心界》という2つの共通言語で世界を選り分けています(前回記事参照)。今回はその《関心界》に絞り、詳細な分析を提案していきます。そのために、まず、3つの《程度》の話をします。興味関心のある出来事と僕らとのあいだにどのような関係をもつのか、それが3つの《程度》の分析対象です。


1つ目の程度は、出来事に身も心も振り回されている状態を指します。例えばスポーツ観戦中の得点の動向。これを熱狂的なサポーターが追っていれば、応援しているチームの得点に歓喜の悲鳴をあげ、相手チームの得点にブーイングを浴びせるでしょう。体温が上昇したり、動き回りたくなるかもしれません。

別の例では子育て。もしかしたら、我が子を愛するがゆえに子供の失敗に憤怒したり、成功に狂喜乱舞するかもしれません。

このような状態を《肉体》という言葉で言い表すことにしました。《肉体》の程度では、体感や感情にその場の行動や判断が振り回されます。それだけ臨場感ある言動を返すことができますし、周囲を強く巻き込みます。


次に、3つ目の程度について説明します。2つ目の程度は1つ目と3つ目の中間項に値するので、先に3つ目を説明してしまいます。3つ目の程度は、《肉体》とは対極的に、出来事に対してまるで他人事のように振舞います。先ほどのスポーツ観戦の例で言うと、得点が入ったら「入ったようだね」と反応し、相手に得点されても「入れられたらしいね」と反応するように、周囲から「冷めてる」とか「引いてる」と言われそうな応対しかしません。

子供が成果物を満足げに持ってきても、申し訳無さそうに間違いを詫びても、顔色一つ変えず「完成したのね」とか「間違えたのね」と言って終わります(分かりやすく極端な例にしています)。

この状態を《幽体》と呼ぶことにしました。ここまでくるともはや関心が無いようにも見えますが、《無関心界》とは違い、本人自身に出来事に対する興味関心はあります。ですが、様々な要因で関心のある当該事象との関係を、他人事のようにしか築けなくなっているのです。


最後に、《肉体》と《幽体》との中間項に位置する2つ目の程度が《幽体離脱》です。この程度に身を置く人は、出来事に対する自分の振る舞いを意識的に切り替えることができます。つまり、《肉体》と《幽体》のどちらの状態も意図して作り出すことができるのです。例えば、現場リポーターがスポーツを発信する際、スポーツ自体の動向を伝えるだけでなく、現場の熱狂ぶりも伝えなくてはなりません。それゆえ、忠実に動向を伝えようとするあまり《幽体》に振り切ってしまっても、熱気を体現しようと《肉体》であり続けてもよくなく、どちらの状態も意図して使い分ける必要があります。

子供が自分の成功を共有しようとしたとき、ひとまずその場は《肉体》の表現力で感情の共有に振り切ってもよいでしょう。ですが、そのあとにきちんと《幽体》のもつ冷静さで次につながる適切なフィードフォワードをしていく必要があります。


-2つの《次元》-
《肉体》、《幽体離脱》、《幽体》。僕たちは出来事との関係をこの3つの程度で築いていきます。そして(ここまでの説明の雰囲気からも分かると思いますが)、この3つの程度は、出来事と良好な関係を築ける可能性において、2つの《次元》に分けることができます。名称はシンプルに《低次の関心界》と《高次の関心界》とします。


《低次の関心界》に属するのは、《肉体》と《幽体》です。3つの程度の説明でも触れましたが、この2つの程度は、状況に関係なく無意図に行われます。それゆえ、良好な関係を築けることもそうでないことも等しく生じます。一方で、《高次の関心界》に属する《幽体離脱》は、状況に応じて意図的に行為選択をします。《肉体》的反応であっても《幽体》的反応であっても、その反応を示している自分をメタ的視座からモニタリングし、状況の変更に応じて適切に切り替えていくのです。

次回へ続く…