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私、肉体、幽体④

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(今回のシリーズはスマホでの読みやすさを意識して、試しに改行多めで投稿しています)
本シリーズの過去記事↓↓
私、肉体、幽体①
私、肉体、幽体②
私、肉体、幽体③



-3つの《段階》-
ここまで、「対象となる事象に対して人間がどう接するのか」ということを、様々な名付けとともに整理してきました。最後に全てを俯瞰して、3つの《段階》にまとめておきます。


新しい言葉は出てきません。ここで扱うのは、《無関心界》、《低次の関心界》、《高次の関心界》です。この3つの言葉には、移行を想定した直線上での関係性を見出すことが出来ると考えています。つまり、自分にとって《無関心界》に存在する事象は、《関心界》に参入するとまず《低次の関心界》に属し、その先で《高次の関心界》へと移行するという考えです。

この考え方の根底には、人それ自体が段階を移行するのではなく、人の中にこの3つの《段階》が常に存在していて、事象によって《無関心界》にいたり《高次の関心界》にいたりする、という想定があります。何かの事象で《高次の関心界》を体感した人が、全ての事象に対して《高次の関心界》的関係を築けるというモデルを想定してしまうと、都合がよすぎる(というより、少し考えてみれば反例が浮かぶ)と考えてのこの想定です。


最終的には、少しでも多くの事象を《高次の関心界》に放り込むことができれば、常に意図をもって情動的にも冷静にも対応できるようになります。ですから、僕たちは自分の《高次の関心界》に思いを馳せ、どんな要素を持っている事象がそこに到達しているのかを分析する必要があります。そうすることで、いまだ《低次の関心界》や《無関心界》に属していることでも、段階的に引き上げていくことができるようになります。


以上で今回提案したかった言葉と概念についての説明は終わりです。


-メタ的視座を得る-
ところで、《高次の関心界》の説明をしているときに、ちらっと「メタ的視座」という言葉を用いました。この言葉について少し触れておきます。


「メタ的視座」という言葉は、<ある視座から物事を見ている際、その、物事を見ている自分を第三者として見ることを想定した場合の視点の所在>を指しています(もちろん僕が勝手に使っている言葉です)。簡単に言えば、<物事を見ている僕を見ている僕の立っているところ」です。言葉が紛らわしいので、物事を見ている僕を「ボク」と表記し、その「ボク」を見ている僕を「僕」と表記します。


ボクは何を見ているかというと、物事の構成要素です。友人同士のけんかを目の当たりにしているとしたら、けんかしている二人の表情や言葉、身振りや過去の言動、その人に対するこれまでの印象や今起きているけんかの原因、などです。


一方で、僕は何を見ているかというと、ボクがけんかをどう見ているかということです。両者の相手の非を指摘する言葉を切り出そうとしている、勝ち負けを判断しようとしている、二人の表情から感情を拾おうとしている、自分の友人に対する印象で勝手にどちらが悪いか決めつけてから見ている、などです。

そして、今回提案した概念に対応するところで言うと、ボクが目の前で起きている友人のけんかに対して、冷静に対応しようとしている(《幽体》)か、情動的に対応しようとしている(《肉体》)か、についても僕はメタ的視座から見極めます。この見極めができていれば、《幽体離脱》状態であると言えます。


どうしたらボクを僕の視座から見られるようになるのでしょうか。よく聞かれることではありますが、いまのところは「常日頃からその視点で見ようとする」ことでしか習得できないと考えています。そして、習得初期の段階では対象とする事象との時間的隔たりを作る(いわゆる「頭を冷やす」をする)ことが難易度の低下に貢献するのではないかと考えています。でも、「そんな気がする」程度の推論ですから、ここについては引き続き考えを深めていきたいと思っています。