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途上の理解と自己矛盾

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応用行動分析的な介入を子供に行うこと、僕が日常で行なっていることに不安が渦巻いています。

子供の発達支援を目的に、僕は応用行動分析の考え方を基本とした療育を行なっています。実際には、僕自身が支援を行う機会は減り、チームのスタッフが殆どの支援を行っています。支援者が〈きっかけ〉となる刺激を提示し、対象の子供が支援計画に基づいて特定された〈望ましい行動〉を行い、それに応えるかたちで支援者が〈ご褒美〉を提供する。

このサイクルを何度か繰り返して、子供が〈望ましい行動〉を行うことのメリットを学ぶと、〈望ましい行動〉が定着し、支援は次の行動へと対象を変えます。


支援計画には対象の子供の中期、長期の状態像が書かれ、そこに向かうにあたって必要な行動たちが小さな目標群として羅列されます。子供の中長期の状態像を描く際は子供の意思決定を第一に、保護者の意思決定、支援者の意思決定も踏まえて保護者と支援者との間で話し合いが行われます。


あくまで療育であって教育ではない。そう言い聞かせてもなお、僕の不安は止まりません。


実際、適切に〈きっかけ〉、〈望ましい行動〉、〈ご褒美〉のサイクルが循環すると、対象の子供は不適切行動よりも適切行動を多く行うようになります。心身の発達による〈ご褒美〉の移り変わりに周囲が適応できれば、上記のサイクルを長く維持することができ、サイクルの中の〈望ましい行動〉をカートリッジのように交換し続ければ恒常的に適切行動の学習を促し続けられます。

子供は不適切さを指摘されることが減り、その意味ではある程度(子供によっては相当に)生きやすくなるでしょう。


これだけメリットを自力で説明でき、実際に支援者として実施してメリットが生じる瞬間に立ち会っていてもなお、僕の不安は消えません。


僕が何を不安に思っているのか。簡単に言うと、応用行動分析的介入を行うかぎり《子供がどこまでも客体であり続けているのではないか》ということです。僕が適切に計画的に療育を行うかぎり、子供は《客体の檻》に収監され続けるのではないか、と不安に思うのです。

ここで用いる「客体」という言葉は、「ある主体の、認識や行為の対象となるもの」という意味を持っています。この「客体」の意味に僕の応用行動分析的介入はすっぽりとはまっているだろうと考えています。つまり、支援者の僕や僕と計画を共有している保護者(=ある主体)の、計画立案や支援介入の対象(=認識や行為の対象)に子供が位置付いているということです。


反対意見として想定されるのは、「計画立案の段階、中長期の理想の状態像を描く段階で子供本人が参加すれば良いだろう」というものです。この意見にはおおかた賛成です。「おおかた」とつけているのは、僕がまだ未就学児の支援しかおこなったことが無く、子供本人が支援計画立案や状態像に関与するイメージが湧いていないからです。


尊敬してやまない大先輩にこのことを相談しました。案の定、「お前の応用行動分析に対する理解が浅い」という回答でした。ということは、あくまで現状の僕の理解や実践力の程度で生じている不安であって、応用行動分析的な介入それ自体に不具合があるわけではなさそうです。


今できることは、学びを深めることと、実践を拡げていくこと。この2つの動作を着実に行い、次の段階に昇華していきたいと思います。