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サーフィンを完全にナメていた話

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先日、人生で2度目のサーフィンをしました。2度目といっても、1度目も今年の夏に入ってからなので、ほとんど初めての状態です。

サーフィンをしてみて「こりゃ完全にナメていたな」と思ったので、この気づきが失せてしまう前に書きなぐっております。
どうナメていたのかというと、「サーフィンはチャラい」というスーパーあるある思考で「やってる人たちがチャラいからサーフィン自体も多分浅い感じなんだろうな」というふうに思っていたわけです。

サーフィンやってる人 = チャラい人
サーフィン = チャラい
チャラい人 = 論理的でない人
論理的でない人 = (僕にとって)浅い人
浅い人がやるスポーツ = 浅いスポーツ

(※ここでの「浅い」は「浅はか」の使い方に含まれる、思慮の深みがないものに対する眼差しを表しています)

こんな感じの等式が頭の中で出来上がって、結果的に僕には無縁のものだな、と思っていたわけです。

でも、今は違います。みんな、絶対に一度はやってみたほうがいい。そして、サーフィンとサーファーの皆さま、今までごめんなさい。


まず、実際にやってみて、サーフィンにはほとんど論理的思考が通用しませんでした。というより、厳密に言うと論理的思考の積み上げる速度が殆ど刹那的にならない限り、波の移ろいに対応できないのです。

僕はスノーボードをやりますが、板に乗って滑るという類似点はあるものの、刹那性において天と地の差があります。雪山は動かず、雪がある限りはいつでも始められ、いつでも終えられます。僕が働きかけるのをやめるまで、常に受け応えてくれるわけです。だから、休憩所に腰掛けて、眼前の斜面を観察しながら「あそこはカラダをこう傾けて、あのあたりで反対に切り返して…」とゆっくり時間をかけて論理を整えることができます。その意味ではスノーボードは静的なスポーツと言えるかもしれません。


サーフィンで相手にするのは波です。彼らは方丈記で鴨長明が河に見出した「無常」(常に同じであるものなどこの世に無い)をそのままカタチにしたような存在です。抽象化して「大きさ」や「割れ方」などの記号を貼り付ければそれなりに同じものたちに見えますが、その記号には個々の波を完全には言い表しきれていないという美しい諦観が腰掛けています。

その美しい諦観の存在を如実に表していたのが、僕にサーフィンを教えてくれた先生の態度でした。先生は僕にサーフィンを教えるとき、特に波について言及するときに物凄い頻度で言い淀むのです。自分が発した言葉が記号として不十分であることに何度も直面しているかのように、言い淀むのです。そのうえ、ボディランゲージが増え、もはや言葉は完全にその役割を剥奪されていくわけです。スノーボードと比べて圧倒的に動的なスポーツです。


この刹那性、動的であるさまに対応するためには、(もちろん論理構築の速度を最大まで上げるのも1つの手ではあるでしょうが)論理では無い何かに拠り所を移す必要があると直観しました。そして、それは僕にとってこれまで自分が積み上げてきたものを場面的に否定、無力化することを表していました(場面的というのは、サーフィンをするという場面においてのみ、ということです)。ここに惹かれ、深い畏敬の念を感じたわけです。完全に虜になっていますね。


僕は初めてのサーフィンを振り返って、その体験をジャズ音楽との出会いの中に見出そうとしました。波に乗ってボードの上に立っている瞬間の胸の高まりは、ジャズの演奏を聴いているときに自分の心に流れていたリズムと楽器の音とがピタリとハマった瞬間に発したくなる「グルーヴィ」という言葉が適切に言い表しているような気がしたのです(上記の「グルーヴィ」の定義は僕の体験に基づいて構成されたものです)。


そして、ここまで考えてみて思ったのが、「だからサーファーはチャラいのか」ということでした。結局戻ってきたのかと、いえ、そうではありません。僕は今、深い畏敬の念を持って「サーファーはチャラい」と言っています。僕の中で起こったパラダイム・シフトは、

チャラい人=論理的でない人

から、

チャラい人=動的で状況論的な人

への移行でした。思えばサッチマンが『プランと状況的行為』で用いた「状況的行為」の事例もトラック諸島の船乗りが波を見て船をこぐ様子でした。


軟派に見える人には、もちろん色々な種類がいるとは思いますが、その中に柔軟さゆえに軟派に見える人たちがいるのだろうと思いました。そういった人たちに僕は、状況に応じた身体の使い方、しなやかな身のこなしを学ぶべきだと思いました。

サーフィンを完全にナメていたわけですが、今回のこの出会いによって、これからは色々なものの見方や扱い方、接し方が変わるような気がしています。それぐらいにとんでもない出会いでありました。