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逡巡

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憂鬱に呼び出されて都心の喫茶店に来た。昨晩の「明日空いてるなら会ってよ、話したい」が僕の午後を占領し、おまけに午前中の頭の中も満たした。憂鬱に最後に会ったのは1年以上前で、そのとき彼女はまだ憂鬱という名前ではなかった。1年もあれば色々なことが起こるし、名前だって変わる。僕だって以前のように活気と呼ばれることはなくなった。


憂鬱は小花が散りばめられた白いワンピースとともに現れた。来年あたりに流行ると思うんだよねと、挨拶も無しに言った。僕は正直、白って汚れそうだな、くらいにしか感想を持たなかった。こういうところでいつも女性から呆れられるが、彼女は飲み物のメニューに目を落としていて、僕のことなんか気にしていないようだった。後ろから見ると、小花の隙間から生える華奢な腕が綺麗だった。鼻の中に彼女の香水の香りが広がり、それは珈琲の香りよりもずっと重たかった。アイスコーヒーでいい?振り返って僕にそう聞く彼女は、憂鬱という名前に不釣り合いな表情をしていた。不意打ちに僕の視線は宙を泳いだ。うん、それ、コーヒーでいい。


店内は都心の避暑地と化し、僕らが座る余裕など無かった。外国人観光客たちが大きい荷物を引きながら席を探している。僕らは諦めて早々に店を出た。テイクアウトのカップを選んだことが誇らしかったのか、憂鬱は笑顔で僕に自分のカップを見せて舌を出した。


ただのアイスコーヒーを、私が頼んだのと違うから、と言って彼女が一口飲んだ。外で飲むんだったらアイスにすればよかった、彼女の文句は止まらない。だいたい、カフェの席っておしゃれだけど少な過ぎるんだよ、デザインも大事だけど数だって大事。僕の同意を求めている様子は無かった。僕は通行人を目で追って服装や性別や年齢を読み込んでいた。案の定、アイスコーヒーは彼女のものになり、僕の手元にはホットのカフェラテが届いた。ホットの感触に驚いて彼女のほうを見ると、前を向いたまま口元に笑みを隠す彼女の首筋に汗が流れるのが見えた。その滴に気を取られて、何見てるの、横顔可愛い?と揶揄われた。そういえば今日はなんで会うっていう話になったんだっけ、僕は不自然に話題を逸らしてから自分の首にも汗を感じた。


憂鬱の話はアイスコーヒーよりも苦く、カフェラテよりもくすんでいた。でも、自分の存在をゆるやかに否定していく美しい演説だった。向かう先は破滅、そう思わせる内容であるのに、聞き惚れそうになる心地よさがあった。扱う言葉に年齢相応の幼さを感じるが、しなやかな論理構成には少しも空隙が見当たらない。孤独にじっくりと時間をかけて考えたのだろうと思った。時間をかけたのか、そうせざるをえなかったのか、おそらく後者だということに息苦しさをおぼえた。分かりやすく僕の呼吸が少し浅くなる。酸素が足りずに朦朧とする視界の片隅に不意に捉えた彼女の太腿。右膝に近いところに彼女の煩悶が刻まれていた。どうして見えやすいところにあるのだろう、僕の疑問は恐ろしく平凡だった。


立ち眩んだ僕を憂鬱は大丈夫?カフェインきつかった?と覗き込んだ。僕は大丈夫とだけ答えて二重にぼやける憂鬱の顔が一つになっていく様を楽しんだ。眉間に皺を寄せていても透明感のある顔だった。身体の奥底が沸々と沸き立つのを感じた。左手に持っていたカフェラテを軽く振って、中身の揺れに気持ちを紛らわせた。


駅までの帰り道は人を避けて歩くのに精一杯で、ろくな会話ができなかった。僕の左斜め後ろを憂鬱が歩く。人を避けているうちに避けることに気持ちが向きすぎて憂鬱と離れてしまった。彼女は僕に追いつくと、速い、はぐれる、もうちょっとゆっくり歩いてよと言いながら僕の左腕を掴んだ。そしてそのまま駅に着くまで僕の腕を頼り続けた。駅は僕の願いを嘲笑うかのようにどんどんと近づいてきた。駅に着くと憂鬱が僕を追い抜いて振り返り、じゃあまたねと言って早々と自分の改札に向かっていった。どこまでも僕の想定を裏切る彼女の言動に心が追いつかず、僕は左腕をさすった。



問1.傍線部「身体の奥底が沸々と沸き立つのを感じた」とありますが,このときの僕の感情を簡潔に説明してください。
問2.この作品のタイトルは「逡巡」ですが,別のタイトルを付けるとしたらどんなタイトルを付けますか。また,そのタイトルと「逡巡」を比較したときにどんな差異があるのかを説明してください。