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他人に期待すること

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最近、僕の生き方に大きな転換が起ころうとしている。というのを自覚し始めた。という話。

他人に期待すること。

このことについて僕はこの2年間くらいずっと悩んできた。他人に対して期待するのが、果たして良いことなのかどうかをずっと悩んできた。いつもの通り、僕は端的に二項対立で検討する。期待するのは良いこと、期待するのは悪いこと。その先で、もし見えてきたら第三の項を立ち上げて止揚する。

他人に期待するのは良いこと。

僕自身、他人からの期待が大好物。期待されると生きている価値があるように感じる。期待され続けるように自分を成長させたいと思うし、期待が僕の成長のほとんど全ての原動力と言っても良い。だから他人に期待することも良いことだと思う。僕は自分が思っていることを他人もそう思っているだろうと拡張する歪みを持っているので、自分にとって期待が良いものであれば他人にとっても良いものだと思う。

他人に期待をすると他人の成長を促せるのではないか、という意味でも良いことだと思っている。何かに取り組むときに、誰かから期待されているのとそうでないのとでは成長の程度が変わるのではないかと思っている。少なくとも僕自身はそう。それどころか、誰からも期待されていなければ完遂する前に中断することすらありうる。課題が終わったあとに「誰かから称賛される」というご褒美が伴わないので、行動として習慣化しないのかもしれない(応用行動分析的に言えば、標的行動に強化子が随伴していない)。

逆に、他人に期待するのは悪いこと。

当たり前のことだけれど、他人に期待をすると期待を裏切られたときが恐ろしい。期待を持っていたぶん、期待していた相手がその期待に応えられなかったときに「裏切られた」と思ってしまうのである。相手からすればただの迷惑。でも、期待していた側も「裏切られた」と被害者づら。加害者不在(逆に言えばどちらも加害者)の泥沼状態になってしまう。喧嘩両成敗といけばいいが、こうなったら大抵の場合はごねる力が強かったり声が大きかったり頑固だったりした方が勝つ。上司と部下なら部下が負けやすい。控えめな部下はこうやって永遠に敗者であり続けてしまう。もちろん、部下が強い職場なら逆転するけれども。

あと、期待されていると分かった瞬間から酸素が薄くなって息できなくなる人もいるでしょう。僕は先ほど期待が大好物だと言ったが、僕の周りにはむしろ期待されることを恐れている人が多い。期待されないように毎日自分をディスり続け(謙遜を超えている)、ハードルというハードルを片っ端から押し下げていく。良かれと思って期待を伝えると、腰から上がハリガネのように固まってぎこちない動きになってしまった部下もいた。

他人に期待すること。

こうやって考えて、期待することのメリットよりもデメリットのほうが多いのかしらと思い始めた。だから、期待しないで期待するのと同じ効果を生み出すような方法を模索し始めた。これが所謂、第三の項。期待とはつまり未来を先行して描き出すことであって、「こうなる(こうしてくれる)と信じているよ」という挑戦課題を提示することである。課題ということは、達成したときに相応の報酬(強化子)があれば、課題を達成するためにとった行動は習慣化して成長を演出してくれる。期待しなかったとしても、この部分(習慣化による成長)は結果として生み出す必要がある。そして、未来を先行して描くという部分についてはかなりの程度で弱める必要がありそうだ。おそらくここに息苦しさを感じているのだろう。先に描かれた未来予想図に自分が到達できないのではないか、という予期不安が勝るのだろう。ここで馬力がかかって成長した新たな自分で期待に応えられる人は、そもそも期待を恐れないはず。

ということは、期待はしないけれど課題は提示して、課題を遂行できたら後から「実はこれこれこういう期待のもとにこの課題を課していたんだ」と開示したうえで褒めまくれば良い、ということだろうか(期待の開示は不要かもしれぬ)。かなり冗長な第三の項だけれども、なるほど少しは上手くいきそうな予感がする。

実際のところどうなのかは、今後の僕の実践を待ってから論じたい。こんなに上手くできるのかしら、かなり不安である。