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メリーゴーランド

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降りる
こんなメリーゴーランド
さようなら、バイバイ

植田真梨恵(シンガーソングライター、福岡県出身)の「メリーゴーランド」の冒頭部分。最初の3文字でやられてしまった。この「やられた」という感情がどうして沸いたのかを考えてみることにした。

僕は邦楽を言葉で聴く。BUMP OF CHICKEN、Acid Black Cherry、平井堅、ヨルシカ、back number、King Gnu、池田聡、村下孝蔵。聞こえてくる言葉を追いかけて、音楽を身体にしみ込ませる。同じアーティストでもジャンジャン鳴っていたりワイワイ騒ぐだけの曲は聴かず、言葉が良く聞こえるものを好む。だからカラオケに誘われるのは恐怖。自分が本当に歌いたい(というより聴きたい)曲は「睡眠導入剤」と言われがち。

好きな人ができたら
僕を殺してほしい
どきりとするだろうな
こんなこと言ったら

谷口貴洋(シンガーソングライター、大阪府出身)の「欲望」の一節。引っ張ってくる歌詞を見るに、所謂「メンヘラ」的な表現(投げかけ)にぐっとくるのかもしれない。迷惑に引き込まれるような表現に、自分の有用感を求めているのかもしれない。よそう、別にそういうことを分析したかったわけではない。でも、「やられた」となるのはそういう「ぐっとくる」表現に鷲掴みにされたときであるから、本当はきちんと向き合った方がいいのかもしれない。職場の管下スタッフに、「こばたくさん、元気がないときbuck numberとか村下孝蔵とか口ずさんで仕事してますよね」と言われたことがある。防衛機制の観点で言えば、他人が芸術活動によって昇華したものを啜って、知性化や合理化をおこなおうとしているのかもしれない(Vaillantによる分類を参考)。そんなに難しく考えなくても、シンプルにカタルシスを得ているだけだというのがオチだろうけど。

カタルシスと言えば最初に紹介した植田真梨恵の「メリーゴーランド」は、なるほど最近の自分のおかれている状況によく似ている。以前書いたように僕は「生き急いでいる」と思われるような人生を送っているわけだが、周期的に自分の歩調に自分が追いつけなくなる期間がくる。ランナーズハイが訪れる直前の停滞にも似ているこの期間。自分のなかに分裂した二人の自分が存在し、片方はメリーゴーランドのように一定の速度(普段の自分の期待している成長速度)で歩み続け、もう片方の自分は実態としての疲労や逼迫によって減速気味になる。そうして、後者の自分が他力(前者の自分)に振り回されているような状態になる。「メリーゴーランド」に「やられた」今がまさにそうなのかもしれない。

こうしてたまに、自分が無意識に手に取るものを眺めてみるのはいい。自分のことが少しだけクリアに認識できるようになった気がするし、クールダウンにもなる。