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居心地の悪さ。

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自ら進んで居心地を悪くする、これが大人になってからの生活で結構大事なことだと思っています。思っているというより、最近強く思うようになりました。


もう少し詳しく説明します。ここで言う「居心地」というのは、主に仕事環境に対する評価を意識して使っています。が、生活環境全般でもやや当てはまるかもしれません。そして、自ら進んでというのは文字通り、自分からということです。つまり僕はいま、自分の仕事環境や生活環境を定期的に自分の手で壊していくことをお勧めしています。そういう話です。


なぜか、答えはシンプルです。自分の置かれている環境が壊れて居心地悪くなると、人は無意識に居心地の良さを求めて動き回ったり再構築しようとするからです。もし毎日座ってた椅子が壊れたら、同じものを買い直すか、これを機により良いものを求めてECサイトを見漁るか、いっそのことスタンディングスタイルに移行するか、何かしら代替をおこなうと思います。このとき、頭のなかではリプランニング(再計画)案件が発生し、現状のアセスメント(どんなニーズがあるか、予算はどれくらいか等)をし、今後の行動が導かれ、導かれた行動の実施に至ります。このプロセスを引き起こすことが、居心地を悪くすることの最大の目的です。たとえ結末が旧体制への回帰だったとしても、そこに再検討の過程が生じればよいです。


もちろん、日々の生活維持を脅かすような重大な破壊は不要です。壊すことを強く意識し過ぎて修復不能になってしまっては、自分自身を傷つけて終わりということになってしまいます。自分を傷つけることにこそ楽しみを、と思うようになってきた方はぜひ周りの人にそのことを話して相対化してください。ただ、傷つけることはしないでほしいと思いつつ、ギリギリのところまで追い込むほうが、修復時の恩恵は増えます。肉離れは恐ろしいですが、適度な損傷は筋肉の成長のきっかけになります。


そもそも、なぜ、スクラップアンドビルドを賛美するのかについてまだ書いていませんでした。これはあくまで僕の経験に基づく考えですが、ざっくり言うと、この世の中を生き抜いていくためにはある程度の変化を自分で引き起こしていく必要があると思うから、です。不易流行という言葉は本当にその通り、と思うわけで、不易なこと・ものの存在も認めます。でも、不易なこと・ものというのは粒度の高いレベル(概念・信念など)でこそ見出されるものだとも思っています。そして、粒度の低い具体的な制度やテクノロジーなどは、ほとんどの場合新しいもののほうが優れているとも思っています。だから、自分の中に部分的にでも破壊部門を持っておかないとどんどんレガシー化してしまうと、そう考えているわけです。


もちろん、レガシー化したい、レガシーシステムの権化でありたい、という方は別です。僕は自分でそうなろうとは思いませんが、そういう人がいても排除しません(と自分に言い聞かせています)。上記はあくまで批判、存在の拒否まではしません。ただ、近くにはいられないなと思うので、スッと離れると思います。


最近また居心地が良くなってきました。そろそろ部分的に破壊行為を始めていこうと思います。