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前提としての確信犯

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確信犯という言葉がある。日本では《悪いと分かっていて行われる》行為・犯罪として使われることが一般的だ。

あいつ、あそこにゴミが落ちてるの分かってて素通りしたぜ、だってちらっと見てたもん、ゴミのほう、確信犯だぜきっと。



でも、この使われ方であれば厳密には《故意》犯というほうが良い。もちろん、言葉は流動的なもので、意味も国や時代の変化に応じて変わりうる。その変化を否定したいわけではない。

むしろここでは確信犯という概念が提案された当初の意味に焦点を当てたいのである、という前提で。



管見の限りでは、ドイツの法哲学者が確信犯の概念を提唱したらしい。グスタフ・ラートブルフ(1878年11月21日〜1949年11月23日)が提唱したその概念には、《自分が信じること、重んじる信条・道徳・政治などの理念を確信して実行される》犯罪という意味が込められていた。

平たく言えば、《自分の信念のもとに実行される》犯罪である。



この《自分の信念のもとに実行される》ということが、教育や福祉の実践においては非常に重要になる。



教育や福祉の実践、誰かを教育したり、福祉的支援をおこなったり。実践の相手が人間であれば、自分も相手も日々刻々と変化し続けるナマモノ。

昨日は適切に思えた関わりが、今日には全く異なる結果をもたらすことがある。カチッとはまる音が聞こえるくらいに手堅い成果を実感できることがあっても、その手法が未来永劫、常に正しいものであることはない。何かの理論や方法論を習得しようとしている間にも、全く想像もつかなかった新しい理論や方法論が生み出される。

研鑽に終点などなく、人生が終わる瞬間まで次の課題が目の前に現れる。絶対にこれが正しいです、なんてことは誰も、どの瞬間にも、言えない。



何の目印も無い、潮の流れも風も読めない大海原のど真中に浮遊するような疲労と窒息が僕らを襲う。



そのとき僕らにできることは、《自分の信念のもとに》何かを実行し続けることである。適切か不適切かの価値判断を、己の信念と対応させて行うのである。

行為の一つ一つは、常に適切であり、不適切である。誰がどう見るかでどうにでもなる。そんな世界で他者からの、世界の側からの価値判断に身を委ね切ることは、自己の破壊を引き起こす。もちろん、世界と自己との調整をおこなう過程では、ある程度自分以外の価値判断を参照する必要がある。

しかし、それはまず「お前はお前のする(した)ことに確信を持っているか」という問いに、はいと答えられてから行われるべきである。



自分の実践を振り返るとき、前提として「確信犯」であったかどうかをまず振り返る。そこに迷いがあるうちは、どんなに振り返りを深めたところで、最後の最後にその振り返りが腹に落ちず、逆流し、嘔吐する。かろうじて嘔吐を免れても、永遠の宿酔に悩むことになる。