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辞書的定義で突き放す暴力性

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この文章は「僕が学年通信に書いてみたいこと」シリーズの第一弾です。 今後もこのシリーズの文章がたまに出てくると思います。 みなさん、中学校の生徒になったつもりで読んでみてください。 (たいていの場合、実際に案として出してみたボツネタです。ボツになる理由は、言い過ぎ、過激、賛否両論で保護者対応が大変そう、などです)

随分と大上段に構えたタイトルになってしまいましたが、皆さん、お元気でしょうか。私は最近、元気が続かないことがしばしばあります。身体と心とに分けてざっくり言うと、心は元気なんだけれど、身体のほうで疲れがとりきれないイメージです。おそらく、仕事が終わって家に帰ってから夜遅くまでゲームをしたり、動画を観たりしているからだと思います。ちょいと一回のつもりで再生、いつの間にやら数十本。分かっちゃいるけどやめられない。


元気が続かないと言えば、最近、疲労の色が濃い方々を見ます。生徒の皆さんの中で、です。人間、都合が良いもので、「私が君たちくらいのときにはもっと溌剌としていたぞ」なんて思うこともありますが、世代が違いますからそうもいかなそうですね。


授業中に突っ伏して寝込んでいる人もいます。私はいつも皆さんにお伝えしている通り、他人に迷惑をかけるようなこと(寝返りが酷くて周りにぶつかる、寝息が大きくて騒がしい等)が無い限りはそのままにしています。授業の内容を犠牲にしてまで必要に迫られた睡眠を邪魔するのはいかがなものか、と考えているからです。もしかしたら寝ているのではなくて、疼痛にうずくまっているのかもしれません。ちなみに私はしょっちゅう腹痛で前屈みです。そうした場合は、どうにかして助けを求めてくださいね、授業進行の妨げにならない範囲でどうにかさせてもらいます(配慮の合理性)。


この文章を読んでもなお「嗚呼、小林はどうして授業中に居眠りこいている輩を懲らしめないのか、悪いことなのに」と思う人がいるかもしれません。確かに、そう考えることもできます。逆に「他の先生も小林みたいに考えてくれたらいいのに」という人もいるかもしれません。これも、確かに、そうも考えられると思います。なぜでしょうか。なぜ、こうも色々と考え方や対応の仕方があるのでしょうか。それぞれの考え方や対応の仕方の出てくる背景はなんでしょうか。


はて、私には分かりません。なぜならそういう人に直接聞いてみていないからです。違う考えを認識したり理解したりするには、直接聞いてみるほかありません。でも、この一動作がなかなか難しくなっていますね。SNS等の普及で面と向かって対話する機会が減っているし、今はディスタンスがどうのこうのという問題もあります。話そうよ、の一言がなかなか出てきにくい。


そういうときは、いったん保留にしておきましょう。そして、再度検討できる機会、検討のために取材できる機会をうかがいましょう。間違ってもそのまま突撃するなんてことはしないほうが良いです。真面目な人ほど「ここにもこう書いてあるし」などと辞書や文献等々を片手に突っ込みがちです(研究に燃えていた大学生時代、僕もそうでした)。それをしてしまうと、された側からしたらとっても恐ろしいです。そこには新たな加害性が生じてしまいます。正義を問うあなたのその言動が、いつのまにか人を傷つけるために振り上げられた拳になってしまいます。


直接聞いてみるという面倒なことが、非常に大事なことです。逆ギレされるかもしれないし、話しにならないかもしれないし、こっちがヒートアップしてしまうかもしれない。でも、何も聞かずに相手の言葉以外の言葉(人から聞いたことや、調べて出てきたこと)を投げつけてしまうほうが、よっぽど、あとあと面倒です。